「十二人を選ぶ」

マルコの福音書 3:13ー19

礼拝メッセージ 2020.9.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスはご自分が望む者たちを呼び寄せられた

イエスに呼び寄せられた人たち

 今日の箇所は、昔の映画タイトル「荒野の七人」ふうに言い換えると、「山上の十二人」と題して良いかもしれません。16〜19節に十二人の名前が記されています。シモン・ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党シモン、イスカリオテのユダの十二人です。先程のルカの福音書のほかに、十二人のリストは、マタイ10章1〜4節、使徒の働き1章13節にあります。
 最初の16〜17節には、そのときにイエスによって名前がつけられた人のことが挙げられています。「シモンにはペテロという名をつけ」、「ヤコブ…ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、…という名をつけられた」。ペテロとは「岩」や「石」の意味です。この記述以降、彼の名は元の「シモン」と呼ばれることは少なくなり、ほとんど「ペテロ」と表記されていきます。十二弟子中の筆頭として、特に主の復活後は、頼れる「岩」のようにどっしりとした存在となっていきました。ヤコブとヨハネにつけられた「ボアネルゲ」とは、「雷の子」であると書かれていて、激しい性格を示すとも言われていますが、これが何を意味するのか、確かなことはわかっていません。おそらく可能性が高いのは、彼らが雷のような大きな声で宣教の働きをしていたというものです。また、「熱心党のシモン」というのも、反ローマの立場で政治的に過激な行動さえ辞さないような党派の者たちという見方もあります。反対に「マタイ」はローマへの税金を徴収していた者でした。全く右と左に分かれているような意見を異にする彼らがともにいるように主はなさいました。

何を基準に選ばれたのか

 どの箇所の十二人のリストにも共通しているのですが、最初が「ペテロ」で、最後が「イスカリオテのユダ」です。ペテロは、イエスが逮捕された後、三度否んだ弟子であり、ユダはイエスを売り渡した裏切り者です。特に、ユダについては、なぜ裏切ることになっていく者をイエスがお選びになったのか疑問であり謎です。カルヴァンの注解によると、後世の私たちを教えるためと、このことにより主が引き渡されて十字架の御業が起こったことを説明します。もしも不正な者が教職者となったり、指導的な人が背教者となることがあっても、過度に信仰の動揺を起こさせないため、また、指導者が高慢になって反抗し堕落することへの警告であるとしています。また、教会の安定は、そもそも人間の質や立派さによるものではないことを教えているとも言っています。
 いずれにしても、この十二人を見てわかることは、彼らが決して特別に何か優れた能力を持っていた者でも、高い地位や権力を持っていた訳でもなかったことです。では、信仰の点ではどうかと言えば、ペテロとユダを見れば明らかなように、彼らの信仰が立派であったとか、特別に忠誠心が強かったとは言えません。では、いったい何を基準に選ばれたのか、と考えると、人間的には明確な答えがないのです。しかし、それが主の召し、主からの恵み深き召命というものであると言えます。イエスは「ご自分が望む者たち」を呼び寄せられたのである、としか言えないのです。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、…身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入られせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました」(Ⅰコリント1:26〜27)。


2,イエスは十二人を創り上げていかれた

イエスは十二人を任命された

 並行記事(ルカ6:12〜16)には、イエスが十二人を選ぶ前に夜を徹して祈られたことが語られています。しかしマルコは、そうしたことは記さず、かつてモーセがシナイ山に登って、神の栄光に接したように、イエスが山の上で神の権威をもって、十二人を召していかれたことを淡々と語ります。イエスは権威を持って行動されています。彼はご自身が望む者たちを選び、彼らを呼び寄せ、彼らを任命し、彼らに名をつけられ、神の国の宣教のために立てていかれました。
 この箇所には、イエスがお選びなった彼らに対して、「弟子」であるとか、「使徒」であることを、あえて書いていないように見えます。14節に「彼らを使徒と呼ばれた」という文章がありますが、脚注にあるように、写本上ではこの文はあとで挿入された可能性が高いと言われています。もしそうであるなら、通常、「十二使徒」とか、「十二弟子」と言われている彼らに対して、ここでは、ただ「十二人」としか書かれていないことになります。強調されているのは「十二」という数です。旧約聖書でこの数字は、イスラエルの十二部族のことを指しています。神の国を広げていくため、主はその十二部族のことを御心に置き、彼ら十二人選ばれたのです。ヤコブの息子たちからイスラエル民族が始まったように、教会はこの「十二人」から始まったのです。しかも、ここで「十二人を任命された」という「任命する」は、直訳すると「作る(創る)」であり、英語で言えばメイク(make)です。イエスはご復活後、弟子をつくるように命じられたことからもわかるように、主は一人ひとりを御手の中で創り上げていかれるのです。

イエスは十二人をそばに置き、遣わされた

 「それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(14〜15節)と書いています。この記述は大きく分けると、二つのことになります。一つは、彼らを主のそばに置くこと、もう一つは、彼らを遣わすことです。一緒にいて留まらせることと、宣教に出かけさせることは、まさに静と動です。彼らの第一の務めは、イエスとともにいることでした。イエスと交わり、ともに生活し、彼のおそば近くで教えを聞き、学ぶこと、それが大切でした。イエスが親しくされていたマルタとマリアという姉妹の話を思い出します(ルカ10:38〜42)。主のおそばにとどまること、これが最も大切なことなのです。第二の務めは、イエスに遣わされて、出て行くことです。遣わされて行うわざは、福音を宣べ伝えること、そして悪霊を追い出すことです。それを行えるように、イエスは彼らに権威、力を与えて送り出されます。イエスはこれから十二人を遣わし(6:7〜13)、そしてさらに七十二人を派遣し(ルカ10:1〜20)、そして彼らを通して救われていく私たちを遣わされるのです(参照;ヨハネ17:20〜26,Ⅱテモテ2:2,黙示録7:4〜12)。