「創造主の導き」

詩篇 19:1-14

礼拝メッセージ 2023.4.16 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


創造・律法・祈り

 この詩篇は3部に分かれています。

1.創造者としての神への賛美

 天は神の住む場所であり,大空は天空にある堅いドームです(天蓋)。日(昼間)や夜は言葉を上げます。その言葉は人間には聞こえませんが,神を賛美しています。特に詩篇著者は太陽を擬人化して,自然の代表として述べています。太陽は非常に力強いものとして描かれ、人間には及ばない自然として述べられているのです。日も夜も太陽も,時間の運行について語られているように思えます。天空は時間を管理し、人はその天空によって時間を知ります。日常の生活も、収穫も、祭りも、天空の動きでその時期を知るのです。神の栄光は自然を通して現されています。

2.ヤハウェの律法

 自然に続いて,ヤハウェの律法について語られます。
 律法とは旧約聖書に記されている様々な規則を指しますが,多くのキリスト者にとっては人間を縛るものとし理解されています。律法は神からの大切な規則ではあっても,それは人間の罪を自覚させるという消極的な意味しか見出せないことが多いように思います。しかし,この詩篇ではヤハウェの律法(勧め)はもっと積極的に捉えられています。人間性を押し殺すどころか,その人間性を生き返らせるとされています。その価値は純金に勝っているとされているのです。

3.僕の祈り

 詩篇著者である僕の祈りが記されています。ヤハウェの律法(勧め)で僕は教育を受けたとあります。同時に,人間がヤハウェの教えを守ることに限界があることを告白しています。知らないで犯してしまった罪や,自分の力では制御できない罪がこの世には存在します(社会的な罪など)。だからこそ,神に対して直接的に祈りをささげて,神の支配に自らがあるように望むのです。ヤハウェのみが岩(避け所の意味?)であり,購い主です。つまり罪ある者を買い取って神に属する者とするのです。


神を信頼する意味

 私たちが神を信じるように招かれているのは,良い人になるためではありません。良い人になるのは,良い教えを信じて良いことを行えばよいのです。あるいは良いことができないといって,それでも救いはあると自分を慰めればよいことになります。あるいは他の悪い人を,自分の理想に合わないからとレッテルを貼って拒否すればよいのです。神の招きは,自分が良い人になって(あるいは自分が弱者のような顔をして)他の人を裁く(復讐する)ためにあるのではありません。もちろん,神の教えは良いことを含みますが,良いことだけをしていても神の教えは実現しません。神を信頼するならば,神の教え(言いつけ)を守ろうとするでしょう,これが聖書の主張です。神の教えは,正すべきはただすことが含まれています。自己中心的な行動や物の見方を神は退けます。しかしその目的は,人を拒否するためではありません。人との関係を回復し,助け合って生きていくためのものです。ヤハウェの律法に価値があるのは,人との関係・社会の関係が意義あるものにする、人が生きていく価値を見出すことができる,そこに意味があるからであるのです。文字通りに神の教えを守っても,他者と自分とが生きていく価値を見出すことがなければ,神の教えは地に落ちてしまいます。それどころか,人を拒否する道具になってしまうでしょう。多くのキリスト者は自分が,自分が受けた傷をそのまま他者に押し付けて,同じ思いを他者にさせていることに気づいていません。
 そのような人間社会とは別に,聖書は自然を通して神の意思を伝えようとしています。神が命を造り,命を守ります。だからこそ,神は命を壊す考え・行為・暴力を嫌うのです。だからこそ,私も他者も命を長らえ,生活をすることが出来ます。自然が壊れれば,自分も他者も一蓮托生です。命が与えられているという神の恵みが私にも,それ以上に他者にも存在していることを認めたいと思います。神は自然においても,人間社会にも,命を求め続けるのです。そこに,神の創造と神の律法の意味があります。