ヨハネの福音書 1:1-5
礼拝メッセージ 2023.5.28 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
ロゴス(ことば)の意味
ヨハネ福音書の冒頭は18節まで「ロゴス賛歌」と呼ばれる、ヨハネ福音書の序論になっています。多くの日本語の聖書で「ことば」と翻訳されている語は、もともとのギリシア語では「ロゴス」という単語が用いられています。「ことば」という単語は、単に私たちが話したり書いたりする「言語」という意味だけでなく、どの世界でも難しい意味が込められているものです。日本でも古来、言葉は「言霊」と呼ばれ、人間の語る言葉には霊が込められていると考えられてきました。それは、人の言葉は、自らの考えを伝え、互いに理解し合うことを可能にし、感動を分かち合い、ときには(良い意味でも悪い意味でも)人々を動かすこともできます。このヨハネ福音書のロゴス「言葉」にも、私たちが語る言葉の意味だけでなく、別の意味も含まれています。すなわち、理性です。言葉の大切な要素として秩序・理屈・ルールが挙げられます。感情とは違い、理性は理詰めです。この秩序・理屈・ルールは自然や世界へとつながります。この世界はやはり法則(ルール)で動いていており、その点で言葉に通じます。つまり、ロゴス「言葉」は、この世界を成り立たせているものと言う意味をも含んでいます。ヨハネの福音書は、この世界を成り立たせているものとは何か、それを福音書の冒頭に説明しています。
創造した神
旧約聖書の創世記の最初には、神がこの世界を言葉によって創ったと記されています。ヨハネ福音書はこの創世記の記述を意識しています。つまり、人々がこの世界を成り立たせているのは何かと問うならば、それはこの世界を創造したイスラエルの神であり、イエスを通して自らを顕わした神であると答えるのです。この世界を成り立たせているのは自然の法則ではなく、この世界を創り、命をもたらす神です。ただ気を付けなければならないのは、この世界を創ったのは単に神(あるいは神々)というならば、古代の人々にとってはどの神は解りません。当時のすべての人々は、何らかの神(神々)を信じていたからです。神というならば、どの神がこの世界を成り立たせているのか、その説明が必要です。だからこそ、イスラエルの神であり、イエスをとして自らを啓示した神であるという紹介が必要なのです。
4-5節では、主題が転換して、光と闇の対比について述べられています。創世記にも神が光を造ったことが述べられていますが、それはこの自然の時間の秩序(昼と夜)のことが意味されています。しかし、ヨハネ福音書では、命をもたら真理を指し示す光と命を否定し真理を示さない闇という対比で使われています。そしてその闇は光に対して勝つことはできません。私たちが住むこの世界の現実は、多くの人々が苦しみ、闇が覆っています。誰も本物を知らないし、また知ろうともしません。知っていてもその真理に生きようとはしないのです。しかし、ヨハネ福音書は神がもたらす光、命が実現することを宣言しています。絶望しているからこそ、命と真理が必要なのです。
命の言葉
ヨハネ福音書の冒頭「ロゴス賛歌」は少々抽象的な議論が続くので、解ったようで解らない話になっています。そのような中で、5節までで注目したいのは命という言葉です。ギリシア語では「ゾーエー」という言葉が用いられていて、ヨハネ福音書では特に「朽ちない命」として使われていることが多いようです。神がこの世界を創り支えているのは、命を守るためです、そのようなことを読み取ることができます。神は常に命の側にいます。そのための光であり、真理(神の意思・価値観)です。人は一人で生きているのではありません。何かによって生かされています。それは神が私たちに命を与えたことによりますし、同時に神の意思を自分のものとして受けて止めていくことによります。なぜならば、神の意思は、私の命、私に関わる人々の命、またこの世界に生きる人々の命を守るためであるからです。神の意思に逆らって、与えられた命を無駄にし、他の人々の命を卑しめ、危うくして生きていくことはできます。しかし、それは闇であると聖書は語ります。命を守るために神は自らをイエスを通して顕わし、イエスの言葉と行動に神ご自身の価値観を表明したのです。だから、イエスを信頼して生きること、イエスの言葉に従って生きることは神を信じて生きていくことを意味し、命を守ろうとする生き方を選ぶことになります。命を守る神は、私たちを守るだけでなく、他の人々の命を守るように呼びかけてくださる神です。