「兵士たちからの侮辱」

マルコの福音書 15:16ー20

礼拝メッセージ 2022.2.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスに残虐な行為をする兵士たち

 今回の連続講解説教では、聖書の小区分(小見出し)に基づいて箇所を決めていることで、イエスのご受難、十字架の記事がかなり詳細に見ていくかたちとなりました。主が通られた苦難の跡を福音書でたどることは読んで苦しく、悲しみを感じてしまうことでもありますが、しかしパウロは「十字架のことばは、…救われる私たちには神の力」(Ⅰコリント1:18)であると書いています。それはどういうことなのかを考えながら、本日の箇所を私は読みました。
 17節に「イエスに紫の衣を着せ」たというのは、当時の王さまの衣装に見せるためのことです。マタイの福音書の並行記事には、この「紫の衣」は、「緋色のマント」(マタイ27:28)となっています。「緋色のマント」は、兵士たちが身につけている日常のものでした。注解書によると、それが古くなると色があせたりして紫色になるので、そういうものをここでイエスに着せたのではないか、と説明されています。さらに月桂樹による冠ではなく、茨を編んだものを冠にして頭にかぶせたとあります。イスラエル旅行をしたとき、「トゲワレモコウ」というエルサレムなどに自生する植物を見たことがあります。バラの棘のような小さいものではなく、長さが数センチもある鋭い針のような棘です。もしもこのようなものを編んで頭の上に強く押しつけたとしたら、ただ頭皮に傷がついて血が流れるというレベルではすまないような危険なものです。
 前の15節にはイエスがむちで打たれたことが書いてありましたが、これも実際は単なる革製のむちで打ったのではなく、ギブソン監督の映画『ザ・パッション』で描かれていたように、そこに石や骨片が埋め込まれた恐ろしい凶器のようなものであったと考えられています。福音書は、読者がすでにこうした処刑方法の実態を知っていたから詳細な内容を記さなかったのか、それともその残酷さを強調することを意図していなかったからなのか、それはわかりません。しかし、確かな一つのことは、裁判が終わったと同時に、イエスに対する十字架刑という刑罰はもうすでにこの段階で始まっていたということです。ですから、通常はこの16節から20節はこの後の21節以降の記事と繋げて読まれることが多く、十字架の場面と題されて語られています。


2,イエスに憎悪を抱く兵士たち

 身体的な酷い暴行に加えて、ここで兵士たちがしたことは、これ以上ないほどの侮蔑の行為をして、イエスを精神的にも痛めつけ、追い込んだのでした。そして彼らは「ユダヤ人の王様、万歳」と叫び、葦の棒で頭をたたき、唾をかけて、ひざまずいて拝みました。この16から20節は、「彼(イエス)に」対して「彼ら(兵士たち)が〜する」という同じ構文が繰り返されるかたちで表現されています。彼らのしたことは、繋がれて動けず何の抵抗もできない処刑される人に対して、大勢で寄ってたかってなぶり者にして嘲り、暴行を加えるというあまりにも残虐な所業です。
 そこで出て来る疑問は、なぜ兵士たちはこのようなことをあえて行なったのかということです。なぜこんな酷いことができたのでしょうか。兵隊という仕事ゆえの様々なストレスがあったからでしょうか。もちろん、それについての答えは聖書には直接の答えはありません。しかし、一つ示唆されているかもしれないことは、兵士たちはイエスに対して、憎悪している相手に対するような振る舞いをしていることです。彼らは、イエスをただ単にからかったり、乱暴をした訳ではなく、イエスを「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで、王の格好をさせて侮辱を加えています。ローマの兵士たちは、ローマ皇帝であるカイザルに忠誠を誓い、カイザルだけが唯一の支配者であり王であると教育されていたし、そのために命をかけて働いている人たちでした。そう考えると、ローマの権威の外でイエスが「ユダヤ人の王」であるとすることは彼らにとって甚だ愚かなことであるし、同時に何たる不敬であるのかと怒りと憎悪の念を抱いていたとしてもおかしくありません。彼らはイエスが王であると言ったことを赦せず、とても我慢ならなかったのだと思います。このようにイエスが真の王であり、主君と認めることは、他の価値観に置かれている人たちからすれば、非常に不快なことです。それは決して許すことができず、徹底的にそれを打ち壊して消滅させてしまわなくては気が済まないようにさせるものであるということを、彼ら兵士たちの残虐な行為の中に見ることができるのです。


3,犠牲であるがゆえの勝利者イエス

 マルコの福音書は、兵士たちからのこうした侮辱をなすがままに受けているイエスこそが、そして死刑判決を受けて心身ともに破壊されてしまったかに見えるこのお方が、実に、「神の子」であり、すべての人間の上に立つ「主の主、王の王」であるということを暗示しているのです。一見、敗北したかのように、滅ぼされてしまったかのように見えますが、このイエスこそ真の勝利者であるのです。ヒッポのアウグスティヌスが語ったように、イエスは「犠牲であるがゆえの勝利者」(ラテン語 victor quia victimaヴィクトル・クィア・ヴィクティマ)なのです。この福音書が記されて読まれた時も、ローマによる支配と圧迫は変わりませんでした。キリスト者は「ローマの平和」と呼ばれる強大な支配の下で生活し、それに抗って「神の支配」(神の国)に生きることの闘いを、この十字架のイエスを見上げながら行なっていたと思います。そのことは今日の私たちも変わりありません。イエスはご自分がやがて十字架にかかられることを覚えて、人々に次のように語られていました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(8:34〜35)。


4,勝利者イエスに従う私たち

 十字架を背負って、主に従って歩みなさい。それが主が私たちに呼びかける生き方です。それは険しい道ですし、世の人々から理解されず、評価されず、むしろ敗北者のように見られたり、迫害や侮辱を受けることもあるでしょう。肉体も心も苦しみの極限を味わわれたイエスだからこそ私たちの苦しみを知ってくださいます。主は「多くの人のための贖いの代価」として、十字架にかかられました。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4:8〜9)。ジョン・バニヤンの『天路歴程』で、この世の王であると名乗る怪物アポリオンがクリスチャンに襲いかかり倒されたとき、クリスチャンはミカ書7章8節「私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。」と言って、反撃してアポリオンを倒します。そして宣言します。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ローマ8:37口語訳)と。