「兄との和解」

創世記 33:1ー17

礼拝メッセージ 2019.11.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神との和解、人との和解

 ヤコブ(イスラエル)の族長物語は、前回のところと同様、今回最も大切な出来事を見ることになりました。兄エサウとの和解です。ヤコブは、兄エサウから長子の権と祝福とを奪い取って逃亡し、その後一度も顔を合わせることなく、二十年の歳月が経過していたのです。この再会のときがいったいどんなことになるのか、ヤコブ自身はとても恐れていました。もし兄が怒りを燃やし襲いかかってきたら、自分ひとりのことではなく、妻たち、子どもたち等、一族全体にまで危害が及ぶかもしれません。しかし、神の恵みによって、この再会はそのような最悪の事態に陥ることなく、むしろ幸いにも劇的な涙の和解の時となりました。
 創世記の後半は、ヤコブの物語も、ヨセフの物語も、どちらも神への信仰を語るだけでなく、たいへん厳しい別れ方をした兄弟たちが、最後には、過去の失敗、憎しみの感情、心の傷を乗り越えて、互いに赦し合い、関係の回復を果たしていくことを語っています。信仰ということが神との和解を意味するだけでなく、他の人との和解をも包含したものであることを、聖書は語ります。神との和解と人との和解は、表裏一体のような関係性を持ったものなのです。そしてこれは他の聖書が私たちに語っていることとも一致しています。


2,和解することへの戦い

神との出会い

 25章の後半から、このヤコブの話を見ていますが、これまでの彼のしてきた行動やことばを見ると、とても赦しを求めるような人には見えません。一生、エサウと和解しなかったとしても不思議ではないような人物のように思えます。ところが、彼は和解のための行動を実行しました。彼は兄との遭遇から逃げ出さず、心のどこかで絶えず引っかかっていた兄との関係を、ここに修復する行動を取ったのです。何が彼をそのように導いたのでしょう。また、そのことを行わせる力とは何だったのでしょうか。それは明らかに、神との出会いであったと思います。32章1〜2節に記されている、神の使いたちとの出会いがありましたし、続く9〜12節の神への祈りがありました。そしてその最高潮は、22〜32節にある、ペヌエルでの出来事です。

神の御顔と兄エサウの顔

 ヤコブは神との出会いと交わりを通して、新しく変えられたのです。特に注目したいのは、やはり32章22〜32節に書かれた、神的存在者との格闘です。32章30節にこう記されています。「そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた』という意味である」。この「顔と顔を合わせて神を見た」というところから、ペヌエルと名付けられました。ペヌとは顔で、エルとは神の意味です。「神の顔」ということです。実は、それと同様の表現が、33章10節に出て来ます。「私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」。この「神の御顔」(ペネー・エロヒーム)です。
 前回のとき、ヤコブと格闘した人が誰であるのかについて、いくつかの説があることを解説しました。しかし、実はお伝えしていない大事なことがありました。それは、この33章10節との関連です。ヤコブが格闘した神的な存在は、兄エサウの影を持っていたのではないかと言われているのです。確かなことはわかりませんが、彼が格闘した相手は、和解しなくてはならない、エサウのような姿、エサウの顔をしていたのかもしれないのです。32章20節でヤコブは、次のように言っていました。『自分の先に行く贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない』。そしてペヌエルの格闘があり、「顔と顔を合わせて神を見た」(32:30)と語り、33章で、「私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」(33:10)と語り、それらが「顔」ということばで繋がっていることがわかります。そうであるならば、ヤコブは前夜の格闘で、兄エサウと和解するという心の中の戦いをすでに前もって行い、そのことにおいて勝利していたということになります。これは、主イエスが十字架にお架かりになる前に、ゲツセマネの祈りにおいて、すでに霊的に勝利を得ておられたことによく似ています。


3,和解するように励ます神の恵み

 33章を見る中で、同様に強調されていることばは、「恵み」あるいは「恵む」という表現です。これは邦訳ではなかなか文章上、現れにくいことばなのですが、8節と15節の「ご好意」、10節の「お気に召す」、そして11節の「神が私を恵んでくださった」です。これらは、直接的に表現すれば、「恵み」あるいは「恵む」となります。これらのことばはすべてヤコブの語ったことばです。ヤコブは、エサウの中に、自分の富の中に、さまざまな恵みを見出していましたし、見出そうとしていました。和解ということが成り立つ中に、ヤコブはそれが神の恵みに基づくこと、それこそが真の動機づけとなることを知ったのでした。
 そして当然のことながら、ヤコブはその神の恵みを実感するということが、神の赦しという前提なくしてはあり得ないことも理解していたことでしょう。ヤコブは、自分のしてきたこと、その歩みを知っておられる神が愛と寛容をもって赦し、導いてきてくださったということを心に留めていたはずです。主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」にこうあります。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイ6:12)。神がまず私たちを赦してくださった。このことに人を赦し、和解することの土台があります。


4,和解の務めを果たす神の民

 創世記33章のヤコブの姿を見ると、3節で「彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した」と書かれています。赦しを願う姿勢としては、これ以上ないような態度「ひれ伏す」という行為をもって彼が臨んだことがわかります。そしてこの態度は、彼以外の家族にも実践させたことが記されています(6,7節)。赦す側も、赦される側も、和解する際に大切な態度は、へりくだることです。そのような姿勢を持つことが必要なのです。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。『神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる』のです」(Ⅰペテロ5:5)とあるとおりです。
 ヤコブは、イスラエルと呼ばれる新しい人となりました。イスラエルとはこれから彼が神の民の源になるということです。神の民は、神の愛とそのみことばを宣べ伝え、世界の人々が神との和解に至れるように、その恵みのパイプ役を果たすよう期待されているのです。神の和解の務めを果たすということは、人との和解をもたらす者になっているのです(参照;Ⅱコリント5:17〜6:2)。