「偽りなき愛の実践②」

ローマ人への手紙 12:9ー21

礼拝メッセージ 2018.3.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,自分の愛の不十分さに気づく(15節)

 すべての人たちの中にあって、私たちは「神のあわれみ」を知っている者たちとして、どのように愛をもって行動すべきでしょうか。最初に15節を見たいと思います。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょうに泣きなさい」。この文章は意味もよくわかり、キリスト者であれば当然、こんなふうに生きるべきであると思ってしまうのですが、実際に自分にあてはめて考えてみると、実行することがたいへん難しい命令であることに気づきます。
人は皆、利己的な傾向を持っています。誰かがものすごく喜んでいて、幸せそうで、ウキウキしている、そんな状況を見て、なかなか自分のことのように喜ぶことは難しいものです。こう考えてしまうからです。どうして彼にはこんな大きな幸せが来て、この私には来ないのだろうと嫉妬してしまうのです。他人の幸せを許せないのです。友だちであってもどこかでライバル視したり、持っているものを比較したりして、羨んだり妬んだりしてしまいます。いっしょに喜ぶどころか、他人の幸せを知って、心穏やかでなくなることさえあり得ます。
 では「泣く者といっしょに泣く」は簡単であるのかと言えば、決してそうではないと思います。一見、相手に同情する気持ちで悲しみの思いを共感したとしても、そこに少しでも相手に対する優越感を抱くようなことになれば、それはこの御言葉の意味することと正反対のことになってしまいます。隣の不幸が蜜の味のように感じてしまう愚かさに陥りやすいのです。
 しかも立場が変わって、自分自身が喜んでいる方であったり、悲しんでいる状態に置かれていると、誰かにそれを分かってもらいたい、ともに喜んでもらいたい、悲しんで欲しいと願い求めますし、そう思ってくれて当然のように思ってしまうのです。共感してくれないと、冷たい人だと言って、その人をさばきます。こうして考えてみると、認めたくない真実をつきつけられます。私の愛は本当に小さく、不十分なものであるという認識です。ですから、愛は育て、養っていく必要があることを学ぶのです。


2,愛は人を知ろうと努力する(16節)

 愛の実践の鍵は、16節にあります。「互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」。後半にあるように、愛の実践は、自分こそ知者だと思ってしまう錯覚に注意することから始まります。高ぶった思いを反省し、へりくだりの思いを持つように努めること、その上で「互いに一つ心」となるように他の人の思いや心を知ろうとするようにしていくことがその基礎となるのです。へりくだって、相手の思いを知ろうとする、理解するように努めることに愛を行う鍵があるのです。他の人を知ろうとするとは、その人の立場になって考えてみることです。もちろん、それは簡単なことではありません。分からないから、へりくだらざるを得ない、だから、低いところに、弱い立場に順応しようとするわけです。
 20節では、敵が飢えたり、渇いたりと書いていますが、これはたとえ敵であったとしても、その人の空腹や渇きを理解しているということなのです。相手を見ているということです。そして、その必要にさえ応えて、彼らに、食べさせ、飲ませるよう命じられています。
 創世記の族長ヨセフは、数奇な運命をたどり、苦難の生涯を送った人として描かれていますが、ヨセフの生き方として、私が最も教えられていることは、彼が人のことををよく見ていたということです。「朝、ヨセフが彼らのところへ行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、『なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか』と言った。」(創世記40:6〜7)。監獄の中に入れられて、自分がいつ処刑されるかもわからないような極限状況の中で、他人のことなど、本当はかまっていられないはずですが、しかも監獄に入っているということは、彼自身のように冤罪の人もいるでしょうが、おそらくは悪事をおこなって罰を受けている人たちです。しかし、『なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか』と、彼らの姿がいつもとは違うことにしっかりと気づいて、心配して尋ねるのです。


3,愛は善をもって悪に打ち勝つ(19〜21節)

 それでは、ここで問題とされている「迫害する者」(14節)、「悪」を行う者(17節)、「敵」(20節)に対してはどうでしょうか。消極的には、「悪に悪を報いることをせず」(17節)、あるいは「自分で復讐してはいけません」(19節)と語られています。仕返しや報復は、個人であるにせよ、集団の場合にせよ、それが許容されたり、当然そうなることを願う社会の中に私たちは生きています。「復讐はわたしのすることである」(19節)の言葉は、文語訳「復讐するは我にあり」という表現で、人間であるこの私が自らの手で復讐を果たすことであると誤解されることがあります。しかし聖書が言っていることは人間が復讐してはいけないこと、復讐や報いを行う権威は神のみが持っておられることを明言しています。イエスご自身も「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:39)と言われました。
 結論として21節で「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と述べられています。その前の「彼の頭に燃える炭火を積む」というのは、箴言25章21〜22節にある文章の引用ですが、元々は古代エジプトの習慣で「悔い改め」を意味する表現と言われています。もしそうであるなら、敵を敵の状態に置いたままにするのではなく、悔い改めにまで導いて、大逆転が起こることを表していることになります。この表現がそこまでのことを言っているのかどうかは確かではありませんが、19〜21節にある文章全体から推察できることは、愛を実践する生き方が、敵対する人々のいる現実の世界の中で、いかに激しい生き方であるのか、力強い生き方であるのか、その凄まじさを感じさせます。メノナイト派神学者J・H・ヨーダー著『愛する人が襲われたら?』という本があります。その中に非暴力平和主義を生きた人のエピソードがいくつも紹介されています。愛をもって、祈りつつ、平和を貫き、善をもって悪に打ち勝つことが、単なる理想主義でも臆病でもなく、勇敢で力強く、実際的でありながら超自然的な、信仰無くしてはあり得ないものであることを証言しています。