テトスへの手紙 2:1ー10
礼拝メッセージ 2018.7.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,健全な教えに生きる意味 ー 神の言葉が冒涜されないため
どのように生きるのか、という問い
聖書を読むと、このように生きなさいとか、このように歩みなさい、というような勧めが、いろいろと書かれています。現代の人からすると、何か古い道徳律で、人間を縛ろうとしているように見えてしまうかもしれません。そして、聖書についての関心を失ったり、読むことに躊躇する人がいたとしたら、その前に、一つ知っておいていただきたいことがあります。こういう様々な、こうあるべき、という聖書の言葉の背後には、今のあなたはどう生きていますか、またどう生きていこうとしていますか、という問いかけが含まれていることです。
本日の聖書箇所も、「年配の男の人」「年配の女の人」「若い女の人」「若い人」「奴隷」に対して、それぞれの対象別の指導の言葉が書かれています。個々に、何を大切にして、どういうところに注意して歩むべきかを教えています。テトスの立場で読めば、先生である大宣教者パウロからの言葉に、全神経を傾けて、一つ一つ心に留めながら、彼は読んだと思います。諸教会を導き、建て上げる牧会的な務めを、この書を繰り返し読んで、参考にしたと思います。韋編三絶という言葉がありますが、何度も何度もこの書が擦り切れるぐらい読んでいたことでしょう。
ただ生きるのではなく、善く生きる
ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなく、善く生きるということなのだ」と語りました(プラトン著『クリトン』より)。ただ生きるというのではなく、善く生きること、これはギリシア哲学の倫理思想の中心でした。生きるということの質、どう生きるのかということなのです。
テトスは、これからクレタ島に誕生していた諸教会の建て上げに力を尽くそうとしていました。そんなテトスに、パウロは、「年配の男の人」には、あるいは「年配の女の人」には、このような人として彼らの成長を助けて欲しいと、指導の任を与えたのです。つまり、それは、どういう教会を建て上げるか、そしてその構成メンバーである一人ひとりは、どういう生き方をし、どういう家庭を築いていくのか、を示すものでした。
一人ひとりが健全に成長し、健全な家庭が形成され、健康な教会が島のあちらこちらに建てられて行く、そうしてクレタ島全体が、健全な教えによって生まれ変わっていくのです。今までのように「嘘つき」とか、「怠け者」とか、「悪い獣」とか言われていたクレタ人はいなくなり、かつてイエスがナタナエルを指して言ったように、「見なさい、まさにこの人こそ真のクレタ人だ。この人には偽りがありません」(参照;ヨハネ1:47)と、純潔で、慎み深く、裏表のない、品位のある人々がクレタ島に満ちるのです。
2,健全な教えに生きる意味 ー 家族を愛する人を育てるため
良いことを教える教師であれ
1〜10節の勧めの言葉の中で、特にユニークに感じたのは、「年配の女の人」に対して言われている言葉です。まず、3節「良いことを教える者であるように」という命令です。これはもっと直接的に訳すと、「善の教師でありなさい」(岩波書店の訳では「立派なことの教師」)という意味です。これが書かれた時代、女性が教師であるように勧めるということはあまりなかったと思います。さらに、「年配の女の人」たちが、こういうように歩む理由を、「若い女の人」に教えるためだと言っています。次の世代の人たちに、正しい生き方を教える、善く生きる人生の素晴らしさを示すためであると言っているのです。
人を愛することのできる人に育てる
そしてその生き方の中心は、何であるのかと言うと、夫や子どもを愛する人になること、人を愛することができるように励ますことです(4〜5節)。しかし、それは道徳的な強制で、こうあるべきというのではありません。先取りになりますが、この1〜10節の教えの基盤は、11〜14節に書かれています。今回は、11節だけを見ておきたいと思います。「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。」
この「神の恵み」とは、イエス・キリストによって明らかにされた神の愛であり、キリストご自身そのものです。私たちが夫を大切にし、妻を大事にし、子どもたちを愛することの基盤は、神が私たちを愛してくださっているからです。
3,健全な教えに生きる意味—神の教えを美しく飾るため
1〜10節の間で、同じことを指し示す言葉の言い換えが出て来ます。それは「健全な教え」(1節)です。これは牧会書簡全体を貫くキーワードです。それは「神のことば」(5節)であり、「健全なことば」(8節)であり、「神の教え」(10節)なのです。神の言葉、わかりやすく言えば、聖書の言葉こそが、私たちを、そして教会を、健全にして、神の教えに沿って正しく導いてくれます。その健全な教えの内容の詳しい説明は、テトス書には記されていません。むしろ、テトス書が訴えていることは、健全な教えである神の言葉と、私たちの生活とが一つになるようにせよ、との勧めです。健全な教えだけが存在しているとして、それが宙に浮いた状態では何の意味もないことをパウロは語るのです。
御言葉が生きることにつながっていない、御言葉と生活との乖離が問題とされているのです。思想家の森有正は、「ことばというものが考えることと生きることとを結びつけることをやめて、すなわち正しい表現能力を失って、もう何かを表現するのは問題ではなく、ことば自体が一つの糸のきれたたこのようになり、一人歩きを始めて、そのことばのやりとりだけでもってすべての人が問題をすませてしまう」(森有正著『生きることと考えること』講談社p.190)というのが、日本の問題であると語っていました。
そういう意味では、テトスの時代も、今の時代も、この健全な教えである御言葉の力を再発見し、神の恵みに覚醒することが、求められていると言えるでしょう。たとえば、奴隷として生活していた人たちが、健全な教えに基づいて、善良で信頼できる人間として歩む時、神の教えは美しく飾られることになると、パウロは言います。この「飾る」という言葉は、コスモスというギリシア語の動詞形です。コスメティック(化粧品)の語源です。御言葉の本当の美しさは、私たちの生き方によって表すことができることを示しています。