ローマ人への手紙 4:13ー25
礼拝メッセージ 2017.6.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,世界の相続人とされている神の約束を受け取りましょう
①世界の相続人となる神の約束
信仰の原理によって生きる実例として、あるいは先駆者として、パウロは、アブラハムのことを詳しく書いています。前回もお話しましたが、アブラハムは単なる歴史上の一人物ではありません。今日の聖書箇所からはっきりわかることですが、彼は、すべてのものを造られた生ける神から、大切な約束を受けた人なのです。その約束とは、13節にあるように「世界の相続人となる」ということでした。聖書が約束する相続は、人間が相続できるものを遥かに超えています。なぜなら、その財産を所有しておられるのは、すべてのものを持っておられる神ご自身であるからです。
では、それは絵に描いた餅のように、実体のないものであるかと言えば、今はまだかたちが見えないかもしれませんが、やがて必ず実質のあるものとなるはずです。この相続することを理解するために必要なキーワードがあります。それは、「約束」と、「信仰」と、「恵み」です。今日の聖書箇所に、何回か「約束」という言葉が出て来ています(13,14,16,20節)。この相続は、神の約束に基づくものです。ですから、時が来れば、必ず成就することになります。けれども、今の時点では「約束」の言葉を受け取るだけになるかもしれません。
「約束」とはどんなものかと言えば、たとえばチケットみたいなものと考えることができます。電車に乗る時、最初に自動券売機や窓口でチケットを買います。チケットを受け取った時点では、まだ目的地に着いていませんし、その効力は発揮されていません。しかし、誰でも心配することなく、そのチケットを用いて乗車し、目的地に到着できることを信じているのです。
②律法を通してではなく、信仰の義を通して受け取る
そして相続人であることの理解のための、残りのキーワードは、「信仰」と「恵み」です。パウロがここで力説しているのは、律法の実践によって、その約束を与えられたのではないということです。信仰を通して、あるいは神の真実を通して、受けることができたのです。
創世記を読んでわかることは、アブラハムは決して完全無欠な人であった訳ではありませんでした。むしろ、何度も失敗をして、そのたびに痛い目にもあいました。律法を通してではなく、信仰の義を通して、彼は信仰の父と呼ばれるようになりました。それは、言い換えれば、神の恵みのゆえに、ということです。16節に「世界の相続人になることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり」と記されています。それは、信仰によって、この神の約束に連なっている私たちにおいても、同じことが言えます。神の約束は、信仰によって受け取ります。神の約束は、恵みによって始まり、恵みによって完成するのです。
この「世界の相続人」というのは、あまりに大きすぎて、理解し難い感じがしますが、この約束を受け取っている私たちは、その約束の部分的先取りを経験できるのではないかと思います。相続地は、神の国、神の支配や統治が行われている場所です。私たちが聖別してささげる場所や時間、それらを神のものとしてお捧げしていくとき、そこは私たちに委ねられた相続地ではないでしょうか。たとえそれが小さなマクペラの洞穴でしかないとしても、相続地として部分先取していることになると思います。
2,私たちの信仰の父であるアブラハムの信仰にならって歩みましょう
①彼は無から有を呼び出される神を信じました
17節「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」とありますが、存在していないものを存在へと呼び出すということで、無から有を生じさせる神と、理解しても良い言葉です。アブラハムの信じている神は、創造主であるお方に対するものでした。創世記のアブラハムが登場する12章よりも前の部分、1〜11章は、プレヒストリーとして記されていますが、神が造物主であることが大前提となって話が進められています。人間には、いろいろなことができますが、実際に行っていることは、与えられている物を動かしたり、壊したり、混ぜたりしているだけで、完全な無の状態から、有と言い得る存在を、何も生み出してはいません。アブラハムが信じ、私たちが信じ従っている神は、全く次元の異なる、優れて偉大な力ある神であられます。この造り主なる神を、神としていることをともに喜びたいと思います。
②彼は望みえないときに望みを抱いて信じました
18節の「望みえないときに望みを抱く」は、英語では、In hope against hope he believed(New American Standard Bible)と訳されています。この表現「ホープ・アゲンスト・ホープ」は、英語の成句となり、空望みする、見込みの無いのに希望する、という意味で使われているそうです。ですが、ここで言われている正しい意味は、希望に反する希望、あるいは、希望が否定されるところで希望する、と言うことでしょう。
今回学んで気づいたことは、19節で「認める」の語があったことです。アブラハムが何を認めたかと言えば、「自分のからだが死んだも同然であること」、そして「サラの胎の死んでいること」です。信仰による希望とは、このように現実は現実として受けとめる力を持っています。それに目をそむけたり、逃げたりはしないのです。したがって、単なる楽観主義でも、現実逃避でもないことがわかります。
事実をしっかりと認め、受け入れても、なお神の約束を疑わず、希望を持ち続けるという、秘めた静かなパワーがその人の内に、どっしりと揺るがずに存在できるのです。満天の星空を見せられ、あるいは波が打ち寄せる海辺に広がる砂浜を見せられて、この星のようになる、この砂のように無数に増え広がると、自分たち老夫婦から生まれる子孫の約束を、アブラハムは受けたのです。
それは、人間の持っている力の微小さ、無に等しいことをよく知ったアブラハムが、しかし、神にはできる、神は約束したことを必ず果たしていかれる力を持っている、との確信でした。後に、せっかく生まれたイサクを捧げるときにも、彼は「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」ることができたのでした(ヘブル11:19)。