ローマ人への手紙 4:1ー12
礼拝メッセージ 2017.6.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神によって義とされる人の幸いとは?—アブラハムは神を信じて義と認められました (1−8節)
①義と認められることに、どんな意味があるのでしょうか?
この手紙の中心的なポイントは、人が義と認められることです。でも、義とされるというのは、どういうことなのか、理解したり、イメージしたりすることは、案外、容易ではないように思います。おそらく、簡単ではないから、これまで実に多くの神学者や聖書学者たちがそれについて深く論じて、多くの書物を著して来たのだと思います。それほど一生懸命に研究したり、論じたりするのには、確かな理由が存在します。それは、義とされることが、すべての人にとって、とても重要なメッセージであるからです。
義とされることを、私は今まで、2つの角度から教えられてきました。1つは、義という言葉は、法廷で使われる法律用語であるということでした。だから、義とされることを、宣義とも言いました。裁判で被告人が無罪判決を言い渡されることです。もう1つは、義とは、関係的なアイデアであるということです。義はそれだけで独立して考えるものではなく、神と人間との関係性において理解されるべきものということでした。したがって、義とは、神との関係において、人間が正しい立場にある、本来あるべき状態に置かれる、ということを表しているということです。
こうした理解がある程度正しいとしても、無罪とか、正しい関係であることが、実際、今の私たちにとって嬉しく、感動的なことに思えているでしょうか。その点を、よく考えていきましょう。
②義と認められることの幸いを確認しましょう
今日の箇所には、アブラハムのことが中心に記されていますが、ダビデついても少し書かれています。6〜8節を見ると、「幸い」と書かれています。詩篇32:1〜2の引用です。詩篇そのものには「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人」と書いてあります。
引用されている原文も、元の詩篇もそうですが、最初に「幸いなことよ」と書いてあります。この表現は、非常に嬉しい気持ちは、物言わぬ先からその人の顔の表情に現れるように、幸せであることの喜びが全面に出ていることを表しています。ダビデは、ときには楽器を奏でて歌ったり、踊ったりしたことがサムエル記に記されていますが、この詩篇を記したときも、実際に、喜び歌い、あるいは踊ったのかもしれません。
パウロが記している、義とみなされることも、嬉しくてたまらないような幸福を語っていると思います。5章に入ると、「大いに喜んでいます」(5:2)、「患難さえも喜んでいます」(5:3)と、その恵みがいかに大きなものであるかを表現しています。義とみなされることの喜びを述べています。
この「義とみなされる」(3,5、9節)や「義と認められる」(6節)等の「みなされる」や「認められる」と訳されている言葉は、原語では「計算する」「勘定して帳簿につける」という商業用語です。K.バルトはこの語を「算定する」と訳して、次のように解説しています。「生命の帳簿において、ある金額を神の貸方から人間の貸方へ書き移すことができるのである。神はアブラハムの上に起こった信仰の奇跡を神的な義として彼の勘定の中に記帳し給う。…人間はその実質にないものによって神の実質にあずかる。」(『ローマ書』吉村善夫訳 新教出版社 p.144)。
「不敬虔」「不法」「罪」というレッテルが貼られる状態と立場にあって、帳簿にはマイナスしか記せない、赤字で借金状態にある私たちを、神はそのマイナスを埋めるどころか余りあるプラスの金額で「神の貸方から人間の貸方へ」書き移してくださるというのです。ですから、この書の有名な注解書を書いたE.ケーゼマンという学者も、義というものを、神の力強い働きと言っています。またJ.モルトマンは、いのちの肯定であると言います。
そして義とみなされる基はどこにあるのかと言うと、イエス・キリストが十字架の死にまで従い通してくださった真実、忠実にあるのです。義という漢字が、羊の下に我を置くという説明がされますが、確かに納得させられる話です。しかし、漢字の語源学的には、少し違います。白川静博士のものを読むと、義という漢字の上側は、確かに動物の羊を表しており、下側の「我」の部分は、甲骨文字等から見ると、のこぎりのかたちを表しているそうです。だから、義という字の元の意味は、犠牲の「犠」と同じで、いけにえが原意であるということです。私はこちらの解説のほうが、かえって義の意味をリアルに伝えているように感じます。羊がのこぎりで切って屠られ、いけにえとされていく、その様は、神の子羊が十字架に架けられたイメージと重なって見えます。
2,アブラハムが信じるすべての人の父となったことの意味とは? —アブラハムは割礼を受ける前に義と認められました (9−12節)
1〜8節は、義と認められることについて見ましたが、9〜12節は、割礼のことが再び出て来ますが、ここで語られていることは、アブラハムという人物が、私たちといったいどういう関わりがあるのか、ということにつながる内容であると思います。4章全体に、アブラハムが出て来ます。皆様にとって、アブラハムとはどういう存在でしょうか。自分に近い存在のように感じているでしょうか。
パウロが言う、アブラハムは、創世記12章の冒頭から書かれているように、神に選ばれた契約の民の元になる中心人物でした。彼の子孫が神の民となるように選ばれました。この契約は、彼の子孫イスラエルの繁栄がその目的ではありません。彼から生まれる人々を通して、神は、この世界をご自身の義にかなう世界へと造り変えて行くという壮大な計画を持っておられます。つまり、アブラハムは、神のご目的を果たすべく生み出された神の民、神の家族の創始メンバーとして選ばれた人であったのです。
11〜12節には「彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。」とあって、これは創世記15:6などから明らかにされている真理です。内容は、アブラハムは「割礼のある者」ユダヤ人にとっても、割礼を受けずに信じて歩む異邦人にとっても、父であるということです。簡単にいえば、アブラハムは、遠い昔の外国の人物ではありません。日本にいる私たちにとっても父、ルーツとも呼べるような、非常に近い存在です。福音を知り、イエスを主と告白して信じて歩む人は誰でも皆、アブラハムをルーツとする信仰共同体のメンバー、その家族の中に含まれています。