ローマ人への手紙 3:27ー31
礼拝メッセージ 2017.5.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,Q.「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか?」
A.「それは取り除かれました!」(27−28節)
①ユダヤ人の誇り、私たちの誇り
「誇り」は、パウロの文章中、時々目にする言葉です。新改訳聖書で調べると、「誇る」や「誇り」の語は新約聖書中には55回出て来ますが、そのうち47回はパウロの手紙で使われています。日頃の生活で、そんなに「誇り」や「名誉」といった言葉は、あまり使わないように思います。でも、自慢したいことや、他人に伝えたいような誇らしい気持ちは、誰にでも何かあると思います。
神学生の時、インド人の学生が数日間、寮に滞在したことがありました。彼は、自分の国インドは、聖書の中に出て来ると、得意気に語っていました。聖書の中に「インド」についての記載は記憶になかったので、どこに書いてあるのかを聞くと、エステル記1:1に書いてあると言うのです。確かに「ホド」という国名があり、脚注に「インド」とありました。残念ながら、聖書には「日本」についての記載はどこを探してもありません。ちょっと羨ましい気持ちになりました。しかし、この箇所の「誇り」とは、直接には、ユダヤ人の誇りでしょうから、インドどころではありません。ユダヤ人については、旧約から新約まで、その民族の記述で満ちています。確かに、どんなに誇らしい思いを持ってもおかしくないと思います。神の選びの民とされ、律法が与えられ、割礼を受けて、他の異邦人とは区別されて来たのですから。
しかし、パウロがここで語っている「信仰の原理」は、そんな立派な誇りや名誉も、完全に取り除いてしまうものなのです。これは驚くほど大胆な発言です。「取り除かれる」の原語は「家に近寄れないように、閉め出される」(玉川直重著「新約聖書ギリシア語辞典」)という意味だそうです。信仰の原理によって、誇りの居場所はなくなりました。「すでに」とあるように、もう人間的な誇りや考えは信仰の原理によって、存在できないのです。
②信仰の原理とは
27節に「行いの原理」「信仰の原理」と出て来ますが、これは何かと言えば、続く28節の「人が義と認められるのは、律法の行いによるではなく、信仰による」という原理のことです。この「原理」と訳されている言葉と、「律法」と訳されている言葉とは、全く同じ「ノモス」というギリシア語です。これは元々、分配するという意味の言葉から来ており、原理や法則の意味を持っています。英語では、law(ロウ 法律、法則)という言葉に訳されます。定冠詞theや頭文字を大文字にすると、旧約聖書の「律法」を指します。実は、ギリシア語本文では、ほとんど、それが律法なのか、原理の意味なのか、区別が明示されていないので、どちらを意味するかは、文脈から判断しなくてはなりません。
でも、そのことがわかると、律法というものを、ギリシア語的にどう捉えていたのかが見えてきます。律法とは、神の民として、生きるための原理や法則であるということです。法則というのは、理科系の勉強科目でよく出て来ました。いろいろな物理的事象も、何らかの法則性を持っているから、その法則を知って、必要な計算をすることで、次の動きを予測できたりします。
ですから、この原理とか、法則というのは、単なる知識や一部の情報ではありません。それは、その人自体を動かしているような価値観や、根本的な精神基盤になっているようなものなのです。信仰の原理として示されている内容は、私たちの生き方を根本から変えてしまうような、力のある生き方の法則を語っていると理解いただきたいと思います。人がなぜ、このような反応をするのか、こんな決断をするのか、なぜ、このようなお金の使い方をするのか、なぜ、こんな時間の使い方をするのか、実は、私たちの生き方には、何らかの原理が働いているのです。そして、聖書が提示してくれているものが、信仰の原理なのです。
2,Q.「神はユダヤ人だけの神でしょうか?」
A.「神は、異邦人にとっても神です。」(29−31節)
信仰の原理で生きて行くと、わかることは、これまでこの聖書箇所が明らかにしてきましたように、すべての人は、皆等しく、罪の下にあるということです。表面的には、確かに、より正しい人もいるし、ひどく悪い人もいるように見えますが、神の前には、すべての人は、神のさばきに対して全く弁明の余地はなく、すべて断罪されるべき存在です。ユダヤ人も、ギリシア人も、日本人も、どの国の人も、罪の下にあることに違いはありません。このように、罪は普遍的な広がりを持つ事実なのです。しかし、もう一つ明らかことは、神は、すべての人間の神であるということであり、神は、すべてのものを造られた創造主であるということです。神は、お一人しかおられません。聖書が啓示している神だけが、唯一真の神です。
この二つの真理、すべての人は罪人で、すべての人の神が唯一であるとすると、神は人間をどのように救い、生きるようにされるのか、を考えてみてください。信仰の原理は、これ以外には道はないと思われる、神の用いられる唯一の方法であることがわかります。もし、律法という原理で救われるのなら、ユダヤ人には有利かもしれませんが、他の人たちにはやはり難しいことです。また、当のユダヤ人にとっても、律法の精神に生きることは困難でした。他の別の道で、こういう行いを、あるいはこんな儀式を行わないと、またこういう修行を、というのであれば、やはり出来る人と出来ない人が出て来てしまいます。
信仰の原理は、すばらしい原理です。信仰は、誰でも、いつでも、持つことができるものです。ただ神が成してくださったことを信じるだけで、あるいは神がお立てになった、私たちの罪のために十字架にかかられ、復活されたイエスを主と告白するだけで良いのです。
しかし、これは第三の問いである、「信仰によって律法を無効にするのでしょうか」ということに関しては、注意深く理解しなくてはなりません。パウロが明確に記していますように、「信仰 対 行い」の対決構図を言っているのではないのです。むしろ、イエスを主として迎え入れる信仰は、受け取るものであると同時に、信じる人を、信仰の原理によって、信仰の従順に導くものでもあるのです。ですから、信仰による生き方という原理をその人に与えるものであって、単なる知的理解で終わりません。ですから、パウロは、信仰は、律法を無効にするものではなく、むしろ確立すると言ったのです。