創世記 13:1-13
礼拝メッセージ 2018.9.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,祭壇を築くーとこででも (1~4、18節)
飢饉から金銀ヘ
飢饉のためエジプトに下り、妻サライを「妹」と言って、恥をさらしたアブラムでしたが、神は彼らすべてを顧みて、多くの財産を増やして送り出されました。2節でアブラムが「家畜」、「銀」、「金」を「非常に豊かに持っていた」と記されていますが、直訳 すると「非常に重い」となっています。この「重い」という語は、12章10節で飢饉が「激しかった」と訳されている語と同じで す。飢饉が重くて、かつては苦しんだのに、今や金銀、家畜が重たくなるほどに、財産が増え、たくさんの祝福を受けたことが書 かれているのです。5節では、ロトの「天幕」が原語では複数形 となっていますが、以前の12章8節では単数形で表現されています。複数の天幕が張られるような状態に変化していたのです。「わたしが示す地へ行け」「あなたを祝福する」と約束された主 なる神の言葉は、アブラムが恥をかいたり、愚かであったりする ことを明らかにされる中にあっても、確かに果たされていくので す。
祭壇を築こう
真実なる神の導きと助けを受けてのアブラムの応答は、かつて祭壇を築いた場所に戻り、主の御名を呼び、礼拝を捧げることでした。彼はどこに行っても主のために祭壇を築き、御名を呼びました。13章最後もマムレの樫の木々の中で、祭壇を築いたこと が記されています。私たちも、アブラムの歩みから、どこにあっても「祭壇を築く」というこの象徴的とも言えるあり方をライフスタイルに取り入れて歩みたいと願います。もちろん、実際の何かかたちある祭壇を作るということではなく、心の中で自分の家 に祭壇を築く、職場や学校に祭壇を築く、旅行先で祭壇を築く、これはどこにあっても主の御名を呼び、御言葉を聞き、祈り、礼拝できるということです。
2,問題を解決する—信仰をもって (5~13節)
富の豊かさが争いを引き起こす
信仰をもって歩んでいたとしても、何の悩みも人生の課題もない人はおりません。アブラムも主からの召命を受けて、歩み始め る中に、いろいろな出来事に直面しました(もちろん、信仰を持 たずに歩んでいても、いろいろな困難に出会うと思います)。ところが、信仰の道を歩む中での問題や困難は、神から与えられる 宿題のようなもので、簡単に答えがわかったり、すぐに解決する ことができないものですが、いろいろな実を私たちにもたらしてくれます。今日の箇所の出来事では、神からの恵みや祝福の結果とも言える家畜や財産の増加が、甥のロトとの間に思わぬ争いの 事態をもたらしたことが書かれています。貧しくなっても、生き るための困難がありますが、富が増えて豊かになっても、その財 産の管理等の問題で、悩みや問題が生じるのです。よく言われる ように、問題があること自体が問題なのではなく、その問題に対してどう向き合い、対処するのかが問題なのです。
信仰的な問題解決
アブラムは、年長者としての自分の立場を主張することも、固執することもなく、むしろ目下のロトに好きな土地へ移動するように優先権を与えました。この問題解決は、信仰的な問題解決であったと言えるでしょう。なぜなら、第一に、このロトヘの提案は、相手に譲るという寛大な対処だったからです。このような余裕ある決断がなぜできるのかと言えば、主の祝福の約束をしっかりと信じていたからでしょう。アブラムはエジプト下りの記事にも明らかにされていたように、決して人間的に度量が大きいというような人ではなかったと思います。主は約束されたことを必ず果たしてくださるし、主が真実なお方であることへの全面的な信 頼がこのような問題解決を可能にしたのです。第二に、このロト への提案は、平和的な問題解決です。それぞれの羊飼いたちの言 い分はどちらにもあったことでしょう。アブラムはこう言うこともできたと思います。ロトよ、私はあなたより年長であり、この一族のかしらである、おまえのほうがこの争いに関しては、遠慮 してくれ、と。しかし、決してアブラムはそうは言わなかったの です。彼の申し出は、謙遜な提案でした。「争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから」(8節)と言って、ロトに行きたい方に行かせたのです。義と愛と平和を追い求めるのが、 すべてのキリスト者の務めです(参照;ローマ12:18)。
3,目を上げ、立って、歩き回れ一主の約束を握って(14~17節)
目を上げるアブラムとロト
10節では、どこに定住しようかと、ロトがヨルダンの低地を「目を上げて…見渡」しています。14節では、主がアブラムに 対して「目を上げて…見渡しなさい」と命じています。この「目を上げて…見渡す」という同じ行為が、二人の歩みに大きな相違をもたらしました。ロトのほうは、「目を上げて」ヨルダンの低地を選択しました。10節後半に選んだ理由が示唆されています。「その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」。「潤っている」という言葉は、エデンの園の地が豊かな水で常に潤っていたという記事(2:6,10)を想起させます。そこは「主の園」のようであ るのと同時に、「エジプトの地」のようでした。エジプトには、豊かさとともに、多くの偶像の神々を持つ場所であったということです。13節にはロトが天幕を張って住んだ、ソドムの人々が「邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった」と書かれ ているのです。ロトが選択した視点には、明らかに物質的豊かさを最優先し、霊的なことや道徳的状況を疎んじる判断があったのです。
立って、歩き回れ
ところが、アブラムは、こういうロトが選ぶような物質的豊か さのみを追求するような生き方には進みませんでした。9,11,14節に「別れる」という語が繰り返されているように、アブラムはロトの道に行かず、それとは決別し、信仰の道に進むことを選択したのです。14~17節には、アブラムに対する神の約束の言葉が再び臨んだことが記されています。「さあ、目を上げな さい」と主は語り、アブラムが見渡す土地を彼と子孫とに永久に 与えると誓われています。17節では「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい」と語られています。