「使徒パウロからのあいさつ」

ガラテヤ人への手紙 1:1ー5

礼拝メッセージ 2022.6.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,使徒パウロの権威(1〜2節)

使徒であること

 パウロの語った福音のメッセージの真実性を否定するために、教会を惑わす者たちはパウロが使徒であることについて人々に疑いを抱かせ、彼の権威を崩そうとしていたのでした。ですから、パウロのこの手紙は、冒頭から他の新約聖書の手紙の書き出しとは様子が異なっています。最初から「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく」(1節)と始まっています。ギリシア語文の順序に直して記せば、「パウロ、使徒。人間たちからではなく、人間を通してでもない…」となっています。彼らに対する称賛や感謝のことばもなく、最初から戦闘モード全開というような感じがします。それは彼らが真の福音を捨ててしまうという一刻の猶予もない危機にあったからでしょう。
 パウロがここで主張した「使徒」(アポストロス)とは、任務を伴って派遣される人のことを表し、教会においてそれは、キリストによって選ばれ任命された、特別な任務を担う重要な使節であり、大使、メッセンジャーでした。使徒といえば、十二弟子のイメージがありましたが、パウロの場合は確かにそれらとは異なっていました。彼はイエスの公生涯中に弟子として付き従っていたのでもなく、イエスの十字架と復活のとき、直接目撃したのではなかったと思います。おそらく敵対する偽教師たちは、パウロが教会を教えたり、指導したりする使徒としての権限を持っていないはずだと言い、彼が自己申告しただけの偽の教師であると非難していたのでしょう。

キリストと父なる神からの召命

 しかしパウロは、紛れもなく確かに主から任命された使徒、異邦人宣教のために特別に選ばれ立てられた使徒でした。コリント人への手紙第一15章では、「最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中で最も小さい者であり…」(Ⅰコリント15:8〜9)と、十二弟子、ヤコブに続いて、キリストの顕現に接した使徒であることを語っています。彼はまだキリスト者を迫害する者だった頃に、ダマスコの途上にて、復活したキリストを独特の方法で目撃したのです。そして使徒としての特別な召命を受けました。そのことを明確に示すために、冒頭から「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく」と語ったのです。パウロの使徒職、そしてその権威は、いかなる人間や人間の団体から与えられたものではなく、また自分で勝手に自称しているのでもなく、父なる神からイエス・キリストから、直接に与えられ、委ねられた権威であることをここに示しています。

パウロの協力者たち

 2節の「私とともにいるすべての兄弟たちから」ということばは、この手紙の発信者が複数であることを示すだけでなく、パウロが使徒であることを認めて、ともに主の宣教の働きの同労者として労苦し、戦っている仲間の存在があることを明らかにしています。いずれにせよ、パウロがこの書で自分には使徒としての権威があることを自己弁護をしてまで語っている理由は、自己の尊厳や立場を守るためではありません。それは彼が教え、語った福音、宣教のことばを守るためです。パウロが使徒であることの権威がもしも偽物とされてしまうなら、彼の語ったことばも偽りであると見られてしまうでしょう。このように彼の使徒としての権威は、福音の真正さと直接結びついていました。ですから、絶対に一歩も譲ることのできない必死の戦いだったのです。教会は草創期から、外側からは激しい反対と迫害があり、内部からはその教えを否定する者たちが起こって、苦しいぎりぎりの闘いがありました。すべての教会が、今後、立つか倒れるか、という瀬戸際にあったということです。福音が福音でなくなってしまうような事態に絶対にしてはならないために、パウロは断固として立ち、必死に闘っていたのです。


2,使徒パウロのメッセージ(3〜5節)

キリストは私たちの罪のためにご自分を与えられた

 序文であるこの5節までのところですが、先取り的にパウロはこのあと記述していくことになる重要なメッセージ内容を、たいへん短いことばで、そのエッセンスを記しました。パウロの使徒職も「人々あるいは人間を通してでもない」ものであったのと同様に、彼の語った福音も「人間によるものではなかった」(11節)し、この福音は「イエス・キリストの啓示によって受けた」ものでした。福音は、人間の生み出したものではなく、神から発せられ、主から与えられた人知を超えた絶対的なものであるのです。その重要なメッセージは、この短いあいさつの文章において、簡潔に二つのことばでまとめて表現されています。一つ目は、「キリストが私たちの罪のためにご自分を与えられた」ということです。そして二つ目は、「キリストは今の悪の時代から私たちを救い出された」ということばです。
 それでは、「キリストが私たちの罪のためにご自分を与えられた」について見ましょう。これは私たちの過去の闇を塗り替える決定的なことばです。キリストが私たちの罪を贖うためご自身をささげられ、死んでくださったということです。細かいことですが、ここの「罪」という単語は複数形で、英語で言えばスィンズ(sins)です。私たちの過去の数々の罪は、暗くて重い何ものかを現在の歩みの上に投げかけ、私たちを束縛し、生き難くしています。しかし、ガラテヤ書は明言します。キリストの死が、その闇の力を、その暗黒と悲惨を、完全かつ徹底的に取り除いてしまったのであると。だからあなたがたは、それに怯えて生きる必要はないし、自分を責めたり、誰かを攻撃して生きる必要もないのです。その暗闇に戻る必要は全くありません。キリストにあって、その完全な自由を心から喜び満喫し、今という日々を感謝して生きていけば良いということです。

キリストは今の悪の時代から私たちを救い出された

 そして第二に、そうしたキリストの死による罪による過去の呪いからの解放に加えて、現在と未来に続くメッセージがここにあります。それが「キリストは今の悪の時代から私たちを救い出された」ということです。この「悪の時代から私たちを救い出すため」(4節)とは、「時代」(英語で言えばエイジage)ということばから連想できるように、私たちがキリストの死にともにあずかることによって、一つの支配(あるいは時代)の力の下から、他の支配の中に移されることを示しています。目に見えぬ罪と悪魔による暗闇の支配から、今や私たちはキリストをよみがえらされた父なる神のご支配の中に置かれているということです。人は皆、自分を拘束している力、得体のしれない圧力に抑え込まれて、隷属状態にあるのです。前進したりそれを打破することは阻まれ、いくらもがいても、自らの力ではどうしても乗り越えられません。力による束縛からの解放は、それに対抗して超えていける力がどうしても必要です。キリストの十字架という別の権威、それを凌駕する圧倒的な力によってこそ、その支配から私たちは助け出され、キリストのもとに真の自由を与えられ生かされることができるのです。