マルコの福音書 10:35ー45
礼拝メッセージ 2021.7.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,自分が何を求めているのか分かっていない
第三回目の受難予告(10:32〜34)で、神の国へと進む道には危険と苦難が待ち構えていることを聞いた弟子たちは、おそらくたいへん戸惑い、恐れを抱いたと思います。けれども自分たちは何としても先生であるイエスについて行くと心に決めていた彼らでしたから、たとえ苦しみの道を通ってもその先には栄光があるとの希望をしっかりと持っておきたい、栄光の未来という確証を得ておきたいと願っていたと思います。それでヤコブとヨハネは言ったのです。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」(37節)。したがって、これは彼らの単純な出世欲や憧れだけで出てきたことばではなかったと思います。神の国への希望を強く持っていた弟子たちの思いがここによく表されていることがわかります。ご存知のとおり、右にあるいは左に座ると表現されていることは、日本語で表すと右大臣、左大臣というような高い位に着くという意味です。では、ほかの弟子たちはどうであったかと言うと、41節で彼らはヤコブとヨハネに出し抜かれたと思って憤慨していますから、十二人が皆、同じような願望を抱いていたことは明らかです。しかし、それに対してイエスははっきりと言われたのです。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません」(38節)と。弟子たちの無理解で的はずれな思いがここに指摘されています。それでは弟子たちがわかっていなかったこととは何だったのでしょうか。
2,イエスのあとについて行く道
第一に、神の国に進んで行くことは、イエスが通っていかれる、そのあとについて行くことを意味しています。38節でイエスは「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」とふたりに問われました。そして「できます」と答えた彼らに対して、たしかにあなたがたは…飲み、…受けることになります」と断言なさいました。この杯とバプテスマとは何を意味しているでしょうか。二大聖礼典である聖餐式と洗礼式を思い起こさせる表現ですが、ここではどういう意味で使われているのでしょうか。旧約聖書の中には杯を飲むという比喩表現がいくつかあります。特にイザヤ書51章17節にはこうあります。「エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」。また、イエスがこれから向かわれるゲツセマネで「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(14:36)とお祈りをされました。これらのことからこの杯というのは神の御怒りによる苦しみや破滅といったことの象徴であることがわかります。次にバプテスマですが、このギリシア語の動詞形はバプティゾーといって、本来水の中に沈める、沈没させる、溺死させるという意味があります。このように元々の意味から見ると、杯を飲むことも、バプテスマを受けることも、それぞれが苦難や滅びを示していることになります。艱難や迫害、殉教といったことがここでイエスによって示されていると考えられます。
けれども、ここで注目したいことは、これら「杯」、「バプテスマ」ということばの前に「わたしの」という語が付いていることです。ギリシア語文に則して訳せば「わたしが飲むところの杯」「わたしがバプテスマされるところのバプテスマ」ということです。彼らが注目すべきことはそこにありました。確かにこれから苦難に遭遇するでしょうし、痛みを経験するかもしれません。しかしそれらはイエスがすでに飲み干されたイエスの杯であり、イエスがすでに水の中を通られたところのイエスのバプテスマであるのです。しかも杯もバプテスマも、あなたはひとりぼっちではない、イエスが私たちと一体となってともに歩まれるという聖礼典とつながるメッセージがそこに読み取れます。神の国へ進む道、福音に生きる道とは、このように見放されたような歩みでも滅亡の道でもなく、「わたしの杯」「わたしのバプテスマ」と言われるイエスのあとを従うゆえのものであるのです。メノナイトの人々はそのことを踏まえて、われわれは「霊と水と血の洗礼」によってキリストの弟子となる、と語って来ました(Ⅰヨハネ5:6〜12)。
3,神の国に生きる価値の逆転
第二に、神の国はこの世界とは異なった支配原理で動くものであるということです。ヤコブとヨハネの願いが、何を求めていることになるのかをわかっていないと言われ、それがずれている、勘違いしているとここで指摘された第二のことは、神の国の原理は、この世界とは異なっているということです。価値の逆転をイエスは告げられました。それは偉大な者、第一の者になりたければ、異邦人やこの世のあり方を求めてはいけないということです。政治が掲げる理想では、弱者と強者との立場が逆転することですが、イエスの言われたことはそういうことではありません。社会で見られるように、低い立場に押し込められている人たちは高い立場にある人たちに反感を抱き、その圧政や、横暴な振る舞いに憤りを持っています。ところが、人間の歴史を見れば明らかなことですが、もしその立場が逆転したとしても、多くの場合、今度はその人たちがやはり以前に高い地位にあった人々と同じように権力をふるって、人々を隷属させようとするのです。しかし、そうしたことと根本的に異なる生き方、全く反対のあり方をイエスは語られました。あなたがたが偉くなりたいならば、先頭に立ちたいならば、横柄に振る舞ったり、権力をふるうのではなく、かえって「皆に仕える者」、「皆のしもべ」になるように教えられたのです。
42節に「異邦人の支配者と認められている者」という表現がありますが、注解書によるとこれは皮肉を表すことばであると解説しているものがありました。単純に「異邦人の支配者は」とせず、「〜と認められている者」としているからです。ほんとうは支配者ではないというニュアンスがあると言うのです。逆に言えば、まことの王であり、統治者は神であられるし、メシアなるイエスであると暗に示していることになります。価値の逆転と言いましたが、イエスのお考えでは神が支配される神の国、神の子メシアであるイエスが本当の王です。この世界の支配者や偉い人と思われている人たちが真の支配者なのではなく、この世の国も今はそれが現実と思われているあり方は本来のものではないとここで示されたのです。そして世の価値観とは全く異なる神の国、キリストの王国がもう始まろうとしているとして、イエスはご自分がなそうとしておられることを明言なさいました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(45節)と。「贖いの代価」とはリュトロンというギリシア語で、これは奴隷を解放するために払われる身代金のことです。イエスはご自分のあとに従い、仕えられるためではなく仕えるために生きていくことの喜びと力を与えるため、まことのいのちを生きていけるようにさせるために、私たちに真の自由を与えて解放してくださったのです。