ピリピ人への手紙 4:1ー9
礼拝メッセージ 2015.12.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1, (感謝)の祈りをもって諸問題に対応する
「いつも主にあって喜びなさい」(4節)。ピリピ人への手紙を3章まで読んで来ましたが、いったいどうすればいつも喜べるのか、わからないという思いを持っている方がいるかもしれません。ここで再びパウロがその実践について語ってくれています。主にあって喜び続けることができる生活とは、具体的にどのようなものであり、どうすれば良いか、ということについて教えています。
そこで喜びを奪い去る敵について述べています。それは、思い煩いです。6節で「何も思い煩わないで」(原語では命令形で「思い煩うな」)とありますが、聖書にはたびたび「恐れるな」や「心配するな」「思い煩うな」というような警告の言葉が書かれています。聖書の時代においても、そして昔も今も、人は、恐れ、思い煩っています。その思い煩いを捨て去ることのできる最良の問題への対処法は、祈ることであると聖書は教えています。
6〜7節に祈りについての勧めがありますが、注目すべき点は、第一に、「感謝をもってささげる祈りと願い」とあり「感謝をもって」という言葉です。祈りがいわゆる「願かけ」等と異なっている点はそこにあります。人間から出発せずに、まず、前提として神がおられるところから考えます。その神が私たちを心から愛し、必要なものを備え導いてくださっています。神は御子イエスを送り、私たちのために救いを成し遂げてくださいました。祈りはそれらの前提を踏まえた上で始まるのです。だから祈りは神がすでにしてくださったこと、これからしてくださる御業への感謝の応答がその中心なのです。
第二に「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ということです。祈りのうちに、あなたの心からなる願い、強く真剣に求めていること、そういう心にある本音、弱音、心の痛みなどを神の前に吐露することが必要です。神の前には何も隠すことはできないし、隠す必要もありません。また逆に、すでに知っておられるのだから、別に祈らなくても良いというふうに考えるのではなく、むしろ知っていただこうと進んで神の前に出なければなりません。主よ、この私の、今の心をどうか知っていてください、と祈りましょう。
感謝をもってささげることと、自分の願いを包み隠さず伝えることによる祈りが、問題に対応するための最大の力となります。この祈りには約束が伴っています。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。「人のすべての考えにまさる」とありますが、これは「すべての理性にまさる」という意味で、どんなに優秀な人間の頭脳が考え抜いたことであったとしても、それを大きく上回る神の平和のご支配が、そこにはあるということです。
2,真に (価値)あることにのみ目を留める
8節には「すべての真実なこと、すべての誉れあること」等々に心を留めるように語られています。これはピリピ人への手紙冒頭の1章の祈りの内容に繋がっています。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」(1:9−10)。逆から言えば、真にすぐれたものとは反対のこと、有害なこと、無駄なこと、罪にふけること等については、そうしたことに心奪われてはならないということをも意味しているのです。神が造られたこの世界には確かに「真実なこと」「正しいこと」「清いこと」「愛すべきこと」があるのに、現実のこの世にあっては人の目は罪で曇り、それらが見えにくくなっていることを覚えておく必要があります。だから、真に価値あることにのみ目を向けるように「真にすぐれたものを見分ける」目をもって、悪を避けつつ歩みましょう。
3, (寛容)な心を人々に示す
5節に戻って「寛容な心」という言葉に注目してみましょう。この語は、イエスのように生きる姿勢そのものを示す表現で、とても大切なキーワードだと思います。6節では私たちの願い事をすべて神に知らせよ、とありましたが、同時にこの5節では私たちの心、それは寛容な心ですが、それをすべての人々に知らせよ、と命じられています。
新約聖書学者によると「寛容な心」(エピエイケース)と訳された単語は、日本語に翻訳するのが難しい言葉だそうです。解説によると、「寛容な心」とは、より良い善や愛を実現するためにルールや常識や原則などにとらわれず超越して行動できるための、柔軟で寛容な考えや姿勢のことを表しているそうです。だから言い換えればこの「寛容な心」とは、単なる我慢や辛抱強いということではなく、「あえて人に譲ることのできる精神」、「人に負けることのできる精神」「損をすることのできる精神」というような、しなやかさ、柔軟性をもったスピリットを表しています。私たちが周りの人たちに与えるインパクトの強さは、深い聖書知識でも、伝道の熱心さでもなく、このような「寛容さ」にあると言えそうです。この柔軟な心こそが初代教会から今に至るまでの「証し」の力となって来たことでしょう。私たちの寛容さを多くの人たちに知らせましょう。最後に、5節「主は近い」と言う小さな言葉ですが、実に主にあって喜ぶことの根拠や土台を明らかにしています。「近い」ということは時間的にも空間的にも「近い」ということです。3:20−21にあるように、主が再び来られることが「近い」ことを知って待ち望む私たちであり、「主にあって」と繰り返して語られているように、私たちは主の「近く」に、このお方の中に生きている者なのです。