ピリピ人への手紙 4:1ー9
礼拝メッセージ 2015.12.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神に愛されている者として、 (主)にあってしっかりと立ちましょう
3:12〜14で、パウロは「追求している」「ひたむきに前のものに向かって進み」「神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」と書きました。これは人生や信仰生涯の歩みを、レース(競技)の比喩で表していることはすでに見てきたとおりです。4章に入っても、この比喩が続いています。1節で「冠」と言われている言葉は「運動競技の勝利者への賞として…与えられた冠―花、葉、枝などを編んで頭に巻いたもの」(織田昭編「新約聖書ギリシア語小辞典」)のことです。また3節にも「協力して戦った」とありますが、この「(ともに)戦った」という語は、競技する、競う、という意味の言葉が使われています。
その上で、「主にあってしっかりと立ってください」と勧められています。どこに「しっかりと立つ」かと言えば、この比喩の流れからして、競技場、トラックに立つことではないかと思います。
スポーツ観戦は確かに楽しいことです。でも人生においては、誰も自分を観客にも傍観者にもできないし、自分のレースを走れるのは自分だけであることを、聖書は教えているのです。地上にいる間は、私たちはみんな競技者(アスリート)です。そこから逃げないで「しっかりと立つ」ことが求められているのです。
そこで私たちは競技者としてひとりで戦っているのではないことも、忘れないようにしましょう。まず、はっきりしていることは主と呼ばれているイエス・キリストがあなたをコーチして、サポートしてくれることを常に覚えましょう。
パウロは1節で「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と記していますが、これはパウロの牧会者としての思いでもありますが、その源泉は神であり、主キリストの御思いにほかなりません。あなたを、神は愛しておられるし、神はあなたを恋い慕っています。「わが喜び、冠よ」と感嘆の声を上げ、抱擁してくださいます。
3節で「いのちの書に記されているクレメンスや、そのほかの私の同労者たち」と言わていますが、この過去を思い起こしたような記述と、「いのちの書」の言葉からすると、クレメンスや他の人たちとは、すでに世を去っている人たちのことであるかもしれません。
しかし、そういうすでに世を去り、主とともにいる人たちが、この世におけるレースを終えて旅立ち、いわゆる観客席ではなく、応援席に着いて、私たちを一所懸命に激励しているはずです。「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)。
2, (いのち)の書に名の記されている者として、主にあって一致しましょう
パウロの手紙でも異例のことですが、「ユウオデヤ」「スントケ」と個人名が挙げられて、この女性たちに勧告の言葉が残されています。このように公的に読まれる手紙の中で、通常は牧会配慮をするので、当事者の名前が挙げられるということは、ふつうのことではありません。けれどもあえてそうされたということは、多くの人々にとって、彼女たちの反目は周知のことで、教会全体において、非常に深刻な事態にあったことをうかがわせます。
ところでこの4章2節から9節までの重要なキーワードは「平和」です。直接には7節と9節に出て来るように、それはすべて神の平和(あるいは平安)です。平和の神によって愛され、導かれているはずの教会ですが、実際には衝突が起こったり、争いが生じたりすることがあります。これは確かに多くの人にとってつまずきとなりやすいことです。けれども、だから教会というものは信用できないと判断してしまうことは、あまりにも底の浅い見方です。むしろ、人が集うところには、どうしても意見の不一致があったり、誤解が起こったり、互いに相容れない思いを抱いてしまうこともあるのです。しかし、教会はそこで終わらないし、終わってはいけないのです。そこで相手を責めたり裁いたりして終わりません。むしろ互いに理解を深めていくように、コミュニケーションをはかることができるように努め、つながりを継続するように導かれていきます。時間はかかるかもしれませんが、そうしたプロセスを通して、同じ考えや思いに到れるようになっていくのです。教会は完成した人の集まりではなく、成長過程にある人たちの集まりだからです。
難しい関係性になった時に、忘れてはならないことは、3節にあるように、私たちはともに「いのちの書」に名が記されている者であるという自覚を新たにすることです。
このユウオデヤとスントケの問題に関して、「真の協力者」と呼びかけられている人が、彼女たちをケアし、サポートするようにパウロから依頼されました。「協力者」とは「くびきを同じくする者」の意味です。イエスとくびきを同じくし、同時にパウロや兄弟姉妹たちと同じくびきをになう人が求められています。ある学者はこの「協力者」の語は、日本語の「相棒」に相当すると言っています。昔の乗り物である「かご」は前と後ろで、ふたりが棒を担いで人を運びます。これが「相棒」ということです。神は教会にこうした「相棒」である「真の協力者」を求めておられ、同時にそれにふさわしい人を育てていかれるお方です。