コリント人への手紙 第一 1:1ー9
礼拝メッセージ 2016.2.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
コリント(Corinth)は、古代ギリシアの主要都市で、ペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ地点にある港湾都市として栄えていました。紀元前146年にローマ帝国によって一度町は完全破壊され、約100年後の紀元前44年に再建されました。パウロが手紙を書いたのは紀元50年代であり、町は復興を遂げ、元通りの繁栄を取り戻していたでしょう。この手紙は、内容を見ると新約聖書に収められたこと自体、奇跡的なことであったと思います。というのは、コリントの教会の内部事情が丸見えで、教会の言わば恥とも見えるような深刻な課題が取り扱われているからです。のちのコリントの教会の人たちがよくもこれを全面開示されたものだと感心します。読まれたことのある方はご存知のように、教会の間で分裂状態があり、不品行の問題、信者間での訴訟沙汰、神殿で払い下げの肉の問題、礼拝秩序の混乱などが起こっていたようです。皆さんがパウロだったら、このような教会からの問いかけと、問題解決に対して、どう対処するでしょうか。しかも、コリントの教会の全員は、必ずしもパウロと良い関係にあった訳ではありませんでした。コリント教会の創設に関わったパウロでしたが、おそらくペテロやアポロといった人たちから霊的指導を受けた人たちの中に、パウロを軽んじる人たちがいたようです。誰でも尻込みしてしまいたいような状況で、パウロは決断して、こう思って筆を取ったと思います。「コリントの教会を、福音の真理に基いて、再びしっかりと建て上げよう!」と。そのために、この気が滅入るような課題に対して、パウロは非常に注意深く、この牧会的指導の手紙を書きました。この挨拶文のところで、私は何者であり、あなたがたはどういう存在であるのか、というアイデンティティを彼は明らかにしています。いろいろ複雑になったら、原点に立ち帰るのが一番だからです。
1,あなたがたは聖徒として召されました
パウロはこの手紙の発信者として、自分がどういう者としてこの手紙を書いているのかを明らかにします。それは上からの権威を振りかざすためではありません。キリストの十字架と復活を土台として、この群れを建て上げ、導くためです。この手紙全体を見ると、最初の1章と2章で、パウロは「十字架」を強調します。そして終わりの15章で「復活」を語ります。ちょうど十字架と復活に挟み込んで、コリント教会にあった諸問題に答えています。パウロは主イエス・キリストに遣わされた使徒として、この十字架と復活を土台として、コリントの教会の人々に教会を建て上げさせ、同時にそれぞれの人生、信仰生活を建て上げさせる目的をもって、この大切なアイデンティティを宣言したのでした。それと同時に、コリントの人たちも、「聖徒」「聖なる者」として神の教会に加えられたことを宣言します。1節から9節までで、繰り返し「私たちの主イエス・キリスト」(2,3,7,8,9節)と5回も同じ表現でパウロは書きます。それは「イエス・キリスト」が、パウロにとって「私の主」であり、もちろんコリント教会の人たちにとっても「あなたがたの主」である。ここに私たちの神による切っても切れない太い絆で結ばれている関係を語っています。
2,あなたがたは神の恵みによって豊かにされました
「いろいろな諸問題に奮闘している皆さん。しかし、まず感謝しましょう」と手紙は勧めます。4節「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。」と書かれています。問題に目をつぶったり、蓋をしてしまうこともいけませんが、問題や苦しみに心が占領されて、悲観するだけでは大事なことを見落としてしまいます。すべてに先立つ神の恵みをどんなときにも思い起こす必要をこのパウロのことばは示しています。教会には、それぞれの群れによっていろいろな恵みが与えられています。コリントの教会には、様々な人たちが集い、群れを形成していました。26節では「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません」と書かれていますが、5節や7節で「ことば」「知識」「賜物」の豊かであったことが言われているので、社会的身分は別としても、とても優れた賜物や能力を与えられた教会であったと想像できます。しかし、どんな知識もことばも、賜物も、神の恵みの現れであることを忘れて、うぬぼれたり、誇ったりすることは避けなくてはなりません。与えられた神の恵みの大きさを感謝する時に、諸問題の中に潜んでいる自己本位や罪の心が砕かれていくはずだからです。加えて、この手紙の中でしばしば語られる勧めは、私たちの主イエス・キリストは、また戻ってこられるという終末的期待です。結局、どんなに今、価値あることと思っていたとしても、永遠の視点、そしてキリストの日という裁きの日にあって、それがどういう意味を持つのかということを考えなくてはなりません。今あるこの世がすべてであるかのように歩む時、信仰とかけ離れたこの世的な生き方に逆戻りしてしまうことを覚えておきましょう。
3,あなたがたは主キリストとの交わりの中に入れられました
「イエス・キリスト」は「私たちの主イエス・キリスト」であると確認しましたが、このことばが示しているもう一つのイメージは、信仰の歩みはひとりで行うものではなく、「私たち」とされている兄弟姉妹、信仰の仲間とともに「イエス・キリスト」は「私たちの主」であると告白して、愛し合い、一緒に建て上げていくものなのです。