「人生という旅」

ペテロの手紙 第一 2:11ー17

礼拝メッセージ 2020.2.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,旅人、寄留者として生きる(11ー12節)

私たちは、旅人、寄留者

 キリストを通して神を信じて歩む人たちのことを、ペテロは9節で旧約聖書に基づいて「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」と呼びました。「種族」や「国民」というと、彼らだけでどこかに独立王国でも作るのかと言えば、もちろんそうではなく、今は目に見えない「神の御国」に属する民として、いろいろな場所に散らされ、寄留している状態であることを、ペテロの手紙は語るのです。11ー12節が示すように、キリストにある私たちは、この世界に生きてはいても、この世界に属する者ではなく、天に属している者です。その意味で、私たちは地上では、旅人であり、寄留者のような存在です。でも、旅人や寄留者と表現すると、何か世捨て人のような、この世界から逃避し、隠遁した存在になると誤解されますが、決してそうではありません。詩篇37篇2節「主に信頼し/善を行え。地に住み/誠実を養え。」とあるように、キリスト者はこの世界にちゃんと腰を据えて生きていくように命じられています(参照;エレミヤ29:5ー7)。このように見た目は異教徒や不信者と同じように生活をするのですが、根本においては他の人たちと別の生き方、ライフスタイルを送ることになるのです。その違っているところは、何のためにという目的の違い、そして目指しているゴールが異なっているということです。

肉の欲を避けよ

 ペテロがこの手紙を書いていた当時、キリスト者たちに対する迫害がすでに起こっていました。彼らはほとんどの点で周りの人々と同じであっても、偶像礼拝を避けていたり、4章4節「異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷します…」と言うようなことがあり、2章12節にあるように誤解されて、「悪人呼ばわり」されることもありました。そうした周囲の無理解と迫害の中にあって、ペテロが注意を促していることは、キリスト者の内面の葛藤についてです。「たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)と語ります。この「戦いを挑む」と訳されたことばは、ギリシア語では「軍隊が進軍して来る」という表現です。私たちのたましい、心に向かって、肉の欲望は軍隊のように進んで来て、取り囲み、絶えず攻撃を仕掛けて来ようとしています。しかし、なんとかして、戦いを避けるように努めていかなくてはなりません。この「避ける」という語も、「自分から引き離しておく」ということばです。戦うというよりも、逃げる、離れるというイメージです。日本のことわざに「逃げるが勝ち」ということばがありますが、まさに肉の欲との戦いは、逃げることによって勝つことになるのです。

神の訪れの日

 12節に、もう一つのキリスト者が持つべき、目のつけどころが明らかにされています。それは終末的視点を持つということです。「神の訪れの日」とあります。今という時間の延長線上だけで未来を考えるのではなく、みことばから将来必ず「神の訪れの日」が到来することを知って確信し、その上で今を生きていくということです。この手紙は終末的なビジョンを語って、読者に今の生き方を考えるように促しています。4章5節「彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります」、同7節「万物の終わりが近づきました。」等。聖書が示す私たちの将来を思うことで、目に見える今だけに縛られない生き方が可能になります。私たちは、空間的にも、天に属する民であり、時間的にも、キリストの再臨を待ち望む民なのです。その意味で、私たちは旅人、寄留者なのです。


2,自由人として生きる(13ー17節)

神の御前にある自由

 私たちは、神の民として、旅人、寄留者のような存在ですが、同時に真の自由人でもあるということです。しかし、信仰を持つことによって、自由どころか不自由な束縛を受けることになると周りからは思われています。おそらく自由についての正しい理解の問題がそこにはあります。エドムンド・クローニーは、この聖書箇所の注解で最初に次のように述べています。「この箇所全体は、すべての個人およびグループが「権利」を要求し、自由というものを責任からの自由として理解している現代社会の精神に対しての直接のアンチテーゼと言える内容です。」(Bible Speaks Today IVP Press)。この箇所はローマ人への手紙13章1ー7節で、この世の権威に対して、どのように振る舞うべきかについて、パウロが記したことと内容については並行的な関係にあります。ただ、ペテロの手紙では、自由人として生きることの中で、この社会でのキリスト者の倫理が描かれていることが読み取れます。ここに記されている「自由」とは、神の御前にあるところの自由です。自由に愛し、自由に敬い、自由に従うという生き方です(17節)。

世界を変革していく力としての自由

 注目すべき表現は、13節の「主権者である王であっても」(バシレイ・ホース・ヒュペレコンティ)ということばです。この「王」(バシレウス)は皇帝のことで、「主権者」(ヒュペレコー)と訳されたことばも、ローマ皇帝を指し示しています。歴史的な伝承によると、ペテロはこの書と第二の手紙を記してから、おそらくすぐにローマ皇帝ネロによるキリスト者への迫害と弾圧により、殉教の死を遂げました。彼はこの書にこれらのことを記した時も、ローマ政府のそうした兆候を感じていたと思います。にもかかわらず、「主のゆえに従いなさい」と記し、そして制度、王、総督に従うように(13ー14節)と書いています。あるいは「神のしもべ」として従うように命じています(15ー16節)。これは驚くべきことだと思います。暴力的な革命によって世を正すのではなく、善い行いを通して、従順であることを通して、そしてまた人々を敬い、尊重する姿勢を持ち、神のしもべとして振る舞い、訪れの日を待ち望む、そういう生き方によって静かで力強い変革をもたらしていく、それがここに描かれている神の民のあり方です。なぜ、そういう生き方になるのかと言えば、このあと21ー25節に記されている方のお姿を基本モデルにして、生きる道が提示されているからです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」(2:22ー23)。