「人の子の来臨」

マルコの福音書 13:24ー27

礼拝メッセージ 2021.11.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,苦難のあとに起こること

 オリーブ山から神殿を見下ろす場所で、イエスが弟子たちに語られた終末講話の内容を見ています。今回は24節から27節で、タイトルにあるように「人の子の来臨」です。ここで言われている出来事が起こる前に、偽キリストの出現、戦争、食糧危機、地震など、どれをとってもそれぞれたいへんな出来事ですが、それらが起こるとイエスは語られました。24節を見ると、「しかしその日、これらの苦難に続いて」とあります。言い換えるなら「しかしそれらの日々の中、苦難のあとに」となります。新改訳聖書はここを「苦難に続いて」と訳していますが、ここは他の邦訳のように「苦難のあとに」と訳すこともできます。イエスがここで言われたことは、苦難には終わりがあるということです。永遠に続く苦難というものは存在しません。神がそれにピリオドを打たれるのです。それでは、苦難の時代のあとにいったい何が起こるのか、それを説明しているのが本日の聖書箇所です。これまで語られてきた様々な苦難のあとに、ここでは二つのことが起こるとイエスは語られました。第一のことは、24節と25節にあるとおり、太陽、月、星などが光を放たず、力を奪われてしまうという現象が起こるということです。第二は、26節と27節に書かれているとおり、人の子であるお方が力と栄光とともに来臨されるということです。


2,太陽は暗くなり、月は光を放たなくなる

 24節と25節に「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます」とあります。このような預言がどういう事態を示すものなのか、明確にはわかりません。もしかすると、宇宙規模の大異変が起こることを告げているのかもしれません。ヨハネの黙示録8章に「第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった」と書いています。まさに天変地異です。
 しかし、これらのことばが示すことで見逃してはならない点は、聖書が記された時代においては、太陽、月、星などの天体は人々(異邦人)の信仰の対象になっていたという事実です。ですから、モーセは約束の地に入る前に民に次のように命じたのです。「天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい」(申命記4:19)。旧約聖書を読むと、南北両王国に分かれている時代に、バアル信仰とともに常にあった偶像礼拝が、この天の万象を拝むものでした。これら太陽や月など天体に対する信仰は、中東地域に限らずどの国でもあったし、日本においても古くから太陽崇拝や、月や星などの観察を通して、占いや暦のかたちで信仰されてきました。昔の人々がなぜこれらのものを拝んだのか、想像するとわかります。地上でいろいろなことが起こったとしても、天を見上げれば、太陽は毎日休むことなく昇り、必要な光や熱を届けてくれるし、夜になれば月や星もキラキラと光り輝いています。人々は空を見上げて、そこに安心を見出だせたのです。
 その点を考慮すると、ここで言われていることは地上に大きな影響を与えるような気象異変や災害が起こるという意味にとどまらず、これまで人々が決して変わることのないものとして頼りとしていたもの、希望の光をそこに求めていたところの太陽や月、そして星々などの天のもろもろの力といったすべてのものが、「その日、その時」になると、もはや輝きを失って無力化し、それらに信頼することの虚しさが明らかにされるのです。真の希望の光が何であるのかを明らかにするための、これは神からのあらゆる偶像礼拝に対するさばきなのです。


3,人の子が偉大な力と栄光とともに来る

 次に語られていることは、人の子が偉大な力と栄光とともに来られるということです(26〜27節)。これまで見てきましたように、イエスは度々「人の子」という名称をもって語られました。マルコの福音書で振り返ると、この箇所を含めると三つのステージにおいて、イエスは「人の子」について語って来られました。第一は、地上で働かれる「地上の人の子」です。中風の人を癒やされたとき「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」(2:10)と言われて、人々の病を癒し、汚れた霊を追い出されました。第二は、「受難の人の子」です。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(9:31)と繰り返し予告され、エルサレムへ向かわれました。第三は、ここで語られている「来臨の人の子」で、14章にもあります。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(14:62)。一般的にはこの人の子の来臨のことを「再臨」と呼んでいます。イエスがここで語られたことを見ると、それには二つの目的があることが示されています。一つは、神の偉大な力と栄光が現されるという目的です。そしてもう一つは、神に選ばれた者たちが神との全き交わりの中に帰るという目的です。
 先程も見たように、太陽も月も星もその輝きを失います。真の希望の光として輝かれるのは、神であり、神より遣わされた人の子キリストです。このお方の支配が世界の隅々に至るまでなされるとき、黙示録が記しているとおり、「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである」(黙示録21:23)となるのです。そして二つ目の目的は、27節「そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます」ということです。地上に起こる様々な苦難によって、神によって選ばれた者たちはいろいろな場所に散らされてしまいます。迫害が、患難が、世の罪が、私たち一人ひとりをそれぞれの交わりから遠ざけてしまうのです。ですから、主は私たちを集めてくださるのです。
 人の子の来臨ということで最後に注目したいことは、「来る」ということです。私たちが「行く」のではなく、イエスが来てくださるのです。それは、ただキリストが現れてくださるということではありません。二つ目の目的にありましたように、これは選ばれた者に会いに来られるということです。「迎えに来る」と表現し直しても良いかもしれません。「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)と呼ばれるイエスのたとえ話の「父」のように、「まだ…遠かったのに、…彼を見つけ、…駆け寄って」迎えてくださるために人の子イエスは来られるのです。ステパノが殉教の死の直前に見た、神の右に立って彼を迎えようとされたイエスのように(使徒7:55〜56)、その時が来ると、リアルに主は私たちに会いに来てくださるのです。「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサロニケ4:17)。