「人の子の受難予告(2)」

マルコ福音書 9:30-32

礼拝メッセージ 2021.5.23 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


受難予告

 マルコ福音書は8:27を境として後半部へと移っています。前半部ではイエスである宣教「神の支配」についてイエスの言葉と行いから語ってきました。後半部ではイエスの受難と復活を焦点にイエスの物語を描き、イエスの弟子が「神の支配」に参与する意味を読者に伝えようとしています。11章でイエスはエルサレムに入城します。それは受難の開始を意味しています。マルコ福音書はその受難が始まるまでに3回にわたって、イエスの言葉として受難予告を記します。その2回目の予告が本日の聖書箇所になっているのです。
 30節を見ると、イエスと弟子たちは旅をしていた様子が分かります。他の人々に気づかれないようにしているとは、この受難について弟子たちだけに伝えておきたいということでしょう。受難の意味は多くの人々にとっては理解しがたいことであったとしても、少なくとも弟子たちは理解すべきであることを示唆しています。
 31節には受難予告の内容が記されています。「人の子」は人間を意味する言葉であると言われていますが、ここでは人間一般を指しているようには解釈できません。ダニエル書にはこの世界を裁く者として「人の子」が到来することが記されており、その記述との関連が考えられています。神によって派遣された者が人々によって逮捕されてしまい、殺されるのです。そして殺された人の子は三日目に復活します。イエスは人の子が自らを意味しているものとして語っていますし、弟子たちもそのことを理解していたようです。弟子たちにとって人の子の受難予告は他人事ではありません。しかし、弟子たちの理解はそこまでであって、それ以上のことは分かりませんでした。そしてその無理解は恐ろしさにつながっています。受難予告の内容を考えると、師である者が殺されるのです。復活の予告はあるとはいえ、それは現実的ではなかったでしょう。また、復活は終末のことであり、もし復活が本当に起こるならば、この世界は崩れ去ってしまうかもしれません。


弟子たちの思い

 マルコ福音書はイエスの受難(十字架の出来事)を救いの観点からではなく、弟子たちの生き方と関連づけて語ることが多いようです。8章から10章までの3回の受難予告は弟子たちだけに伝えられています。受難予告の記述で明確になるのは、イエスが語ろうとしていることを弟子たちは十分に理解していないばかりでなく、その語りを恐れていることです。弟子たちの無知が強調されています。本日の箇所ではその点が33節から41節までの2つの記事とつなげられています。弟子たちの無知は知ろうとしないことではなく、自身の考え方や求めているものを優先することで、イエスの言葉が自分たちにとって都合よく解釈されることを意味しています。弟子たちはユダヤの独立を願い、それをイエスに託しているのです。弟子たちにとってイエスがメシアであることとは、イエスがユダヤ独立の指導者になることでした。しかし、イエスは敵の手にわたって殺されると告げます。これは弟子たちの願いを否定するものであり、弟子たちにとっては受け入れがたい言葉です。そこで、弟子たちは何も聞かないことになります。耳を閉ざすことで、イエスの受難予告の言葉から逃れようとしているのです。


弟子である者への招き

 しかし、弟子である者とはその師の言葉の真意への理解に努め、その行動の意味を知り、それに基づいて行動するものです。弟子の考え方よりも師匠の価値観を優先させることが大切です。それは師の価値観を妄信することではなく、謙虚にその価値観に聞き入り、自らの生き方に落とし込んでいくことです。この弟子のあり方は、イエスの直弟子に対して求められているだけではなく、現代においてイエスの弟子であろうとする者にも求められています。私たちには理想や希望がたくさんあるでしょう。それ自体は悪いことではありません。また、イエスに対して期待していることもあるはずです。しかし、それがイエスの言葉への理解を曇らせてしまっていることがあるかもしれないのです。イエスは厳しいことを言います。神に従う者(人の子)が、従うゆえに殺されるのです。この矛盾した生き方に弟子たちを招きます。弟子たちと同様に私たちはそれを恐れます。それにもかかわらず、イエスは従うことを私たちに求め、呼びかけるのです。それが私たちにとって最善であるからだと聖書は証言します。受難予告は弟子を恐れさせるものではなく、イエスの生き方に招く言葉なのです。