「人の子のような方」

ダニエル書 7:1-14

礼拝メッセージ 2024.10.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,四頭の獣の幻

恐るべき「獣」たち

 幻や夢というのは、現実の世界とはかなり異なった不思議で奇妙な内容が多いわけですが、7章で描かれていることもとても謎めいて、不気味な幻でした。ダニエルは言います。「私ダニエルの心は私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は私をおびえさせた」(15節)、そして「私ダニエルは、いろいろと思い巡らして動揺し、顔色が変わった」(28節)と。幻の最初に登場するのは「四頭の大きな獣」です。一頭一頭が異なった獣で、ライオン(獅子)、熊、豹などに似た野獣で、四番目のものは正体不明の生物です。しかもそれらの巨獣は、自然界に生息しているような動物の類では決してなく、恐ろしい姿形をしていました。これらの獣どもは、神に反逆する魔物たちが支配する混沌の世界と想像されていた「大海」から這い上がって来ました。これらは「獣」と呼ばれていますが、「怪獣」か「モンスター」と表現されるものでしょう。エイリアン、キングギドラ、モンハンの怪物みたいなものでしょうか。

「獣」たちが象徴するもの

 これらの獣はあるものを象徴していました。17節にはそれが「四人の王」のことであると明言されています。獣の幻は2章に記されているネブカドネツァル王が見た異様な光を放つ巨大な像の幻と対応していると考えられています。頭、胸と両腕、腹と腿、すねと足で各々材質が分かれていますが、その四つの部分とこの四頭の「獣」です。それが意味する四つとは、覇権を握った帝国のバビロニア、メディアとペルシア、ギリシア、ローマ(または、バビロニア、メディア、ペルシア、ギリシアと解する人もあり)の四つの国々による統治を指しています。
 この幻がダニエルに示されたとき、栄華を誇ったバビロニア帝国は終焉に近づいていました(紀元前550年頃)。しかし、バビロニアという獣が舞台から消え去っても、次にメディアとペルシアという獣が出て来る。そしてギリシアが、というように、戦争と殺戮は繰り返され、覇権を握った国家とその王は、腹を減らした獰猛な獣のように襲いかかって来るのです。彼らは繁栄と領土拡大という野望を果たしていくために、暴力的で残虐な行為をして人々を虐げ、圧迫しました。この書の執筆背景となっているユダヤ世界、神の民たちは入れ替わり立ち替わり現れる時の権力者たちの横暴に、まさに「獣」の支配を見ました。また、第四の獣とされるものについては、恐ろしくて、不気味であり、十本の角の間から小さな一本の角が登場し、おそらく神に逆らう存在として、目があり、傲慢で冒涜的なことを語る口がありました。きっと、人々を惑わし狂わせる反キリストの到来を示唆しているのでしょう。

現代の「獣」とは

 現代の私たちにとってこの幻はどうでしょうか。「獣」という存在が象徴やアレゴリーであると考えるなら、現代の世界にも恐ろしい「獣」がいることに思い当たることでしょう。自分にとっての恐るべきモンスターとは何でしょうか。それは太刀打ちできない程強く巨悪な存在であり、自分を苦しめ、追い詰め、滅ぼし食い尽くしてしまうほどの恐るべき何者かです。宗教改革者たちは、この「獣」の中に当時の国家と繋がっている教会の組織やローマ教皇や迫害者の姿を見ました。そして過去、キリスト者たちは、ダンテの『神曲 地獄篇』冒頭の三頭の野獣のように、この「獣」の中に、「罪と死と悪魔の力」を読み取ってきました。
 しかし、次に見るように四頭の獣の話でこの幻は幕を閉じていません。獣による破壊と恐怖の先には、彼らを凌駕する偉大な存在である方が登場し、輝かしい光を投じます。ヨハネの黙示録には、「悪の力」を恐ろしい「獣」の姿で表現する一方で、救い主であるイエスを「子羊」として描いています。「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示録7:17)。私たちはこの世界の「獣」に心や魂まで支配されてしまうのではなく、「子羊」なるキリストによって守られ、導かれるのです。


2,年を経た方と人の子のような方の幻

天の法廷

 9節から場面が変わります。9節と10節の最初は神の玉座であり、天の法廷です。そこには静謐、秩序、美があり、神の臨在による荘厳さを感じます。神は、ここで「年を経た方」と呼ばれています(9、13、22節)。これは神が初めからおられ、すべてを創始され、これから先も永遠におられる存在者であることを強調したもので、その永遠性を表現しています。次に11節と12節では、「獣」への審判がなされ、その滅亡が定められていることが語られます。13節と14節ではその「年を経た方」の御前に進み出る「人の子のような方」が登場します。この方は神の臨在の象徴である「天の雲とともに」来られたお方です。「人の子」という表現ですが、これはこの文章の流れから、明確に「獣」たちと対照的であることを印象づけます。
 しかも、「人の子」とは主イエスがご自分のことを言い表すときに使われたメシア的存在を示す称号でした。13節と14節に注目しましょう。ここにあるように「人の子のような方」は神的なお方として啓示されています。ダニエル書に多用される表現「諸民族、諸国民、諸言語の者たち」とはこの世界すべてを指しており、しかもその「主権は永遠の主権」ということなので、これまでの人間の歴史で、世界を支配し、そしてそれが永遠に続いた王様はひとりもおりません。

「人の子」である主イエス

 イエスは死刑に定めようとする不当な裁判の中で、はっきりと宣言され、ご自分を「人の子」と語りました。「あなたが言ったとおりです。…あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」(マタイ26:63〜64)。ダニエル書の箇所をもとに、このマタイの福音書の記事を見ると、ここには神の皮肉が含まれていることがわかります。あたかも大祭司がイエスを裁いているかのようですが、実は裁かれているのは大祭司のほうであり、祭司長たちや最高法院に連なる人々が「人の子」キリストによって裁きの座に立たされていたのです。「人の子」はすでに裁きの座に着いています。そしてその死によって「罪と死と悪魔の力」に打ち勝たれ、三日目によみがえられました。私たちがなぜ十字架の日である金曜日に礼拝をせず、復活された日曜日に皆で礼拝をしているのかを考えると明らかです。獣は滅ぼされて燃える火に投げ込まれ、人の子が治める世界がすでに始まっています。こうして終末の「すでに」と「いまだ」の間に私たちの「生」は置かれているのです。