ガラテヤ人への手紙 6:1-10
礼拝メッセージ 2022.9.18 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.互いの重荷を負い合いなさい
⑴ 過ちに陥っている人には、柔和な心で(1-2節)
パウロは、「人は律法を守り行うことによってではなく、キリストの恵みと信仰によって救われる」ということや、「神を愛し、隣人を愛することによってこそ、律法全体が全うされる」ということについて繰り返し主張してきました。しかし、言葉で信仰や愛を告白するだけであるならば、口先だけの偽善となってしまいます。それで、「御霊の実によって生きている(5章25節)」者として、現実的にはどのような生活を実行すべきであるのかを教えています。
具体的には、過ちに陥っている人がいるならば、「柔和な心でその人を正してあげなさい(1節)」ということです。ここで言われている「過ち」とは、知らずに横道に逸れた行為のことです。ただ、「知らずに」とは言え、過ちに陥っている原因は、誘惑に対する弱さであると言えます。悪意がなかったとは言え、そのままではいけません。パウロは、そのような人には御霊の実(5章23節)である「柔和」な心によって、正しい道を伝えるようにと勧めています。それも、あくまで「自分自身も誘惑に陥らないように」という謙虚な姿勢で、そうするようにと言っています。
そして、「互いの重荷を負い合いなさい(2節)」と命じています。この「重荷」とは、前節を踏まえると、過ちに陥る誘惑や、その結果として伴う悲しみや苦しみを指しています。パウロは、互いの弱さや苦難を助け合い、信仰を励まし合うようにして、「互いの重荷を負い合う」生き方こそが、キリストが与えてくださった愛の律法を全うすることになるのだと教えています。
⑵ 誇らずに、自分の行いを吟味する(3-5節)
自分と他者を比較することで優劣をつけて、相手を軽んじたり、非難し裁いたりするということは、私たち人間がしてはならないことです。しかし、残念ながら、人の過ちに対して見下すような物言いをしてしまう誘惑が私たちの内にあります。人の犯した過ちが自分にとっては無縁であると思い上がることがあります。しかし、主は、そのような私たちの心の内もご覧になっておられます。これまでの自分の思いや行いを思い起こしてみると、非常に高慢で、主の御前から隠れてしまいたくなるほどに恥ずかしい自分の姿が思い出されるのではないでしょうか。
自分の行いをよく吟味するならば、他人の言動について、決して偉そうな口を利くことはできません。神様に対する裏切りを繰り返しているような自分のために、キリストがいのちをささげてくださったからです。神様が深いあわれみによって赦しと救いの道を与えてくださると言われているのに、どうして私たちは他人の過ちを非難することができるでしょうか。
ですから、私たちは自分がこの世界の裁判官であるかのような態度で人を非難すべきではありません。自分自身がすでに重大な罪を犯しており、神様が恵みによって救ってくださったことを覚えたいと思います。そして、それゆえに、もし過ちに陥った人がいるならば、そこから立ち返ることができるよう熱心に励ますようにして、私たちは互いの重荷を負い合うべきです。
2.人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになる
パウロは「互いの重荷を負い合いなさい」と教えながらも、同時に「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです(5節)」と言っています。私たちには、「互いの重荷を負い合う責任」があるのと同時に、「負うべき自分自身の重荷」があるということです。
ここでパウロが語っているのは、具体的には、いわば「終わりの日のさばき」のことであると言えます。救いはキリストの恵みによるものであることが重要な前提にありつつも、行いに対する刈り取りがあることについても言及されています。
6節では、みことばの働き人には経済的・物質的にも支援する責任があることが教えられています。「すべての良いもの」ですから、物質的なものだけではなく、祈りや霊的な面での「良いもの」も含まれていると言えます。ただ、パウロは、このような人たちを支援することに限らず、
すべての善を積極的に行うようにと勧めています。
8節によると、「御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」のだと言って、永遠のいのちにかかわることとして述べています。パウロは、救いは一方的なキリストによる恵みであると理解しており、それゆえに、もはや律法に縛られて生きる必要はないと主張してきました。しかし、その恵みを受け取ったキリスト者は、他人を顧みずに生きていくべきではないと考えているようです。むしろ、御霊に生きる者として、ひたすら善を行うべきであると言っています。そして、そのような私たちの生き方を神様がご覧になっており、終わりの日にはその報いがあるのだと語っています。
10節でパウロが言いたいのは、善を行う対象として未信者と信者を区別して、信者を優先すべきだということではなく、まずは教会の中で助け合いを実践していくべきではないかということでしょう。
ただ、私たちにそのような良い生き方を可能とするのは、御霊にほかなりません。私たちは、キリストによる十字架の恵みと、御霊を受けた者として、御霊による愛に基づく責任を果たしていくことに励んでいきたいと思います。