「主イエス・キリストの現れの時まで」

テモテへの手紙第一 6:11ー16

礼拝メッセージ 2025.4.27 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1,信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい

 金銭を愛することへの警告の後、「しかし、神の人よ」とテモテに呼びかけ、テモテ個人に対する勧めがなされています。それは、信仰の戦いを、キリストの再臨の時まで勇敢に戦うようにというものです。
 まず、信仰を迷い出た人(10節)とは違う神の人としての歩み方が示されています。すべてのキリスト者が「神の人」だと言えますが、ここでは旧約聖書的な用法で用いられていると考えられます。旧約聖書においては、神によって召された奉仕者、特に預言者が「神の人」と言われています(Ⅰサムエル2:27、9:6、Ⅰ列王記12:22、17:24等)。テモテは預言者のように、神への特別な奉仕に召し出された者として「神の人」と呼びかけられたのでしょう。
 11節の「これらのこと」は、直接的には金銭を愛することを指していますが、もう少し広く、6:3-10の偽教師たちの教えや生活について言われていると見るべきでしょう。手紙の差出人は、それらから「避けなさい(逃げ去りなさい)」と教えています。そして、逃げ去るだけではなく、「義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい(11節)」と言います。ある人たちは金銭を追い求めました(10節)。それに対し、熱心に追い求めて進むべき正しい6つの道が示されています。それが「義」「敬虔」であり、神に対する忠誠である「信仰」「愛」、そしてキリスト者としての生き方である「忍耐」「柔和」。あえて区分すれば、前の4つは神に、後の2つは人に対する態度について語っているように思われます。しかし、これらをあまり厳密に区別して考え、一つ一つの違いを強調しすぎるのではなく、全体としてキリストの働き人としてのあり方を受け取るのが良いと思います。
 そして、「神の人」はさらに「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得(12節)」しなければなりません。「信仰の」は「信仰ゆえの」とも訳せます。「戦う」は、オリンピック競技や、兵士の戦いに使われた語です。つまり、いのちがけの戦いを意味します。現在命令法が使われているのは、すでに始められている戦いを継続して戦いなさい、ということです。それに対して「獲得しなさい」は不定過去命令法で、ある一点、つまりやがて神にお会いする決定的な時を指しています。このことは、ヨハネの「永遠のいのちを現在持っている」という主張と矛盾するものではありません。ここでは完全な意味での永遠のいのちについて言われています。
 私たちは地上では旅人であり、寄留者です(Ⅰペテロ2:11-12)。ですから、私たちも「永遠のいのちの獲得」を切望し、その日のために「信仰の戦い」を戦い抜きましょう。


2, 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで

 手紙の差出人は「主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい(14節)」と言います。「命令」が直接的に何を指しているのかについては、解釈者の意見が分かれています(6:11-12、6:17-21、手紙全体、バプテスマの時の命令等)。いずれにしても、この命令は「汚れなく、非難されるところなく(14節)」を目指すものであり、新しいいのちの原理である福音に関することでしょう。
 「現れ」は「再臨」を意味します。キリストが天に上っていかれた直後は、再臨がすぐにでも来ると考えられて緊迫感のある状態だったようです。しかし、何年か経過したこの手紙の頃には、当初に比べると少し緊迫感が薄れて、徐々に未来に起こることとして把握されるようになっていたようです。
 15-16節では、この再臨を示される神について語られています。「祝福に満ちた唯一の主権者」「王の王」「主の主」「死ぬことがない唯一の方」「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方」。人間にはとうてい及びえない、あらゆるものを超えた主権者としての神が表されています。当時、最高権威者と思われていたローマ皇帝が人々に「王」「主」と呼ばれていたことも意識して書かれたのかもしれません。
 「死ぬことがない唯一の方」とは、たましいにおいても神以外すべて死ぬ、ということではありません。神はすべてのいのちの根源であるので、死ぬことが不可能なお方です。他のいっさいのものは、神を離れて生きることができません。神は人に「永遠のいのち」を与えてくださる唯一のお方です。
 最後は「この方に誉れと永遠の支配がありますように」と頌栄で締め括られています。再臨のキリストを思い、神をたたえていることが伝わってきます。私たちも、再臨のキリストを思っているでしょうか。キリストが与えてくださる永遠のいのちよりも、地上での富や価値観に惑わされていないでしょうか。そして、そのことによって、自らを滅ぼしてはいないでしょうか。私たちはいのちを与えてくださる唯一のお方を覚えて、本当に大切にすべきものに目を向けていきましょう。信仰の試みを経験することもあるでしょう。そのようなときにこそ、私たちは再臨のキリストを思い、互いの信仰を励まし合っていきましょう。