「主を誇る」

詩篇 20

礼拝メッセージ 2017.12.10 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


必要の満たし

 困難な時期にあってヤハウェが応えてくれますように。 応えとは,困難さの意味を納得させるという返答ではなく,困難から救い出す神の業を意味しています。イスラエルの先祖ヤコブの神(ヤハウェ)の名前とは,神そのものを指し,神の臨在を意味しています。その臨在する神があなたを(困難から)守られますように。神がその住まいから(神殿あるいは神の住まい,シオンも同じ意味),あなたに救いを差し伸べてくれますように。
 あなたのささげ物を神が受け入れてくれるように。 神がささげものを受け入れるとは,ささげた人間そのものを受け入れることであり,その願いに耳を傾けることを意味しています。
 神があなたの願いや計画を受け入れて,その達成に神が働くように。 詩篇筆者とその仲間があなたの救い(勝利)を喜び歌います。神の名によって旗を立てるとは,神を賛美することを意味していると思われます。神があなたの願いを達成し,あなたの救いを実現しました。だからこそ共に喜び,その救いを実現した神を賛美します。


油注がれた者の役割

 後半は,詩篇著者自身の思いについて述べられています。油注がれた者とは,ここでは王を指しています。神は王を救い,助けます。右側は祝福の場所であり,その右手によって救うとは,神の救いの確かさを伝えています。あなたを神が救い,あなたの困難なとき神が応えたという願いは,この王にも実現します。王は政治的な責任を神と国民に負っているのです。その困難さの解決もこの救いには含まれています。
 そのような救い(政治的問題の解決を含めた)は,戦車や馬(軍馬)によるものではないとはっきりと宣言されている。暴力によって人々を支配し,それで戦争のない状態が訪れても真の平和ではありません。そのように一見は力強い者であっても,暴力によって人を支配する者は滅びていくのです。しかし,ヤハウェの名を呼ぶ者は揺るがせられることなく,様々な困難に立ち向かい持ちこたえることが出来ます。戦車や軍馬ではなく,ヤハゥエにおいて救いが実現される。


神ヤハウェによる救い

 ヤハウェとはどのような神でしょうか? 戦車や軍馬と比較されるのはなぜでしょうか? イスラエルは弱小国であり,古代においては国力が神の強弱とされたので,イスラエルの神であるヤハウェは頼るに足らない神ということになります。しかし聖書は、そのイスラエルの神こそ天地を創造し,支配し,どのような政治・経済・文化・軍事的な力よりも頼るに足りる神であると宣言しています。偽の,あるいは人間の作った軍隊は力がない、それだけではこの聖書の箇所の意味は分かりません。人々から見れば力のない神こそ,真にこの世界を支配している神であることを主張するのです。
 聖書の一貫した主張の一つに,この弱さの問題があります。世の中の基準からすれば弱さは否定すべきこと,強さへと変換するべきこととして評価されます。聖書の神は弱い者の味方をする神であると聖書のあちこちで記されています。弱いとは何らかの理由があって弱いのですが,人はその理由を問います。聖書の神はその理由を問う前に,その弱さのゆえに被っている不利益を是正しようとします。強い者だけに価値を置く前に,人が人として生きていくうえで最低限必要なことがあると神は述べ,それを与えようとします。イスラエルは奴隷状態に置かれていましたが,神はそこから解放しました。弱い立場にあった奴隷を,自分たちで生きていけるように人々を導いたのです。
 ただ気をつけるべきことがあります。弱い者が強いものに復讐するために神は人々を救ったのではありません。弱い人々を導く聖書の神を誤解し,弱い者が神を味方に付けて強い者を不当に復讐をしようとすることがあります(“神”の衣を借りる狐)。自分の弱さを隠すために,そして自分よがりのプライドを守るために,人はそのような無責任な行動をします。しかしこれも神の意志ではありません。どのような立場にあろうが,互いに尊重し合うべきです。もし相手に間違い(罪)があれば,相手の立場を考慮しながらその間違い是正することが必要になります。聖書の神は弱い者がそのまま生き辛く放置されることを望まない神であり,不正義を望まない神です。同時に,相手を踏みにじることも望まない神です。強い戦車や軍馬を拒否して,弱い者がまず助けられるべきとする主を誇ります。それはイエスを通して示されたクリスマスのメッセージに通じます。