「主を前にして生きる」

ダニエル書 6:1-18

礼拝メッセージ 2024.9.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,信仰者ダニエルに対する敵からの攻撃

明確な敵対者たち

 信仰の点では、私たちはダニエルたちのように、社会では少数派であり、多くの場合、孤独かもしれません。当時のバビロンの社会のように、私たちの信仰を快く思っていない人々は少なからずいると思います。ダニエルは世の秩序や政権が移り変わっても、高い地位と名誉が変わらず与えられたことで、周囲から妬みや恨みを買うことになり、この事態が生じました。百二十ほどの州や県に分割された諸地域に太守(知事)が立てられ、それをさらに統括する三人の大臣がいて、その三人体制中のトップとして、ダニエルは選ばれました。
 ダニエルに嫉妬し憎悪して、彼を亡き者とするために謀をめぐらした「大臣や太守たち」の存在がありました。4節「大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとした…」。しかし、彼らがどんなに調べても、ダニエルには何の落ち度も欠点もなく、つけ入る隙がなく、結局、彼の信仰の部分を攻撃材料にするほかなかったのです。敵対する彼らの行動について繰り返される表現があります。それは「押しかけて来て」ということばです。この表現は、6節、11節、15節にあり、アラム語で「レガシュ」という動詞で、「集まる」「集合する」という意味です。同じ単語ではありませんが、詩篇2篇2節「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。」を連想させます。また、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスさまをどのように罠にかけようか相談するために「集まったこと」も思い出されます(マタイ22:15,34等)。そして彼らが王を説得し、作成された法令が7節「今から三十日間、王よ、いかなる神にでも人にでも、あなた以外に祈願する者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれる」という禁令でした。

メディア人ダレイオス

 このようにあからさまな悪意を抱き、陰謀をめぐらし、実行するという大臣や太守たちの存在が描かれている一方で、他方、ダニエルに対して一見好意を持ち、彼を心配する王のことが出てきます。この人物は「メディア人ダレイオス」と記されています。この「ダレイオス」とは誰なのか、ダレイオスという名前は、ペルシア帝国の三代目の王の名前ですが、時代的に合致せず、「メディア人ダレイオス」という名称は聖書以外には見られません。ダレイオスが誰を指すのかについて三つの異なる見解があります。第一はダニエル書が時代錯誤をしていて、この王は想像上の人物とする説です。第二の見解は、ペルシアの王キュロスの将軍であった「ウグバル」という人を指すというものです。彼は一年間だけバビロンの町を治めたことがわかっています。第三の見解は、「メディア人ダレイオス」はペルシアの王キュロスの別名であり、キュロス自身のことを指すという理解です。この見解に立つ場合、28節は「このダニエルは、ダレイオスの治世すなわちペルシア人キュロスの治世に栄えた」と理解します。明確に断定できませんが、第二か、第三の見解が良いと思います。

迫害がない中での危機

 ダレイオスは、大臣や太守たちの謀を見抜けず、自分が署名した法令を後悔することになります。14節では「非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った」と記され、18節では一夜を禁欲し、断食し、眠れなかったということです。王の同情的態度や姿勢は、とても善良で優しい理解者のように見えますが、しかしそれはおそらくダニエルの信仰に対する理解や擁護ではなかったと思います。帝国という巨大組織を守るために、一人の有能な人材が失われてしまうことへの一時的懸念であり、痛みであったと思います。もしどうしてもダニエルを救いたければ、王の絶大な権力で超法的手段を取り、ダニエルを守れたはずだからです。
 この一見信仰を持つ者に対する理解者、擁護者にみえるような人が、組織や国家体制の維持など、強力な要因によって、一人の人の生命を仕方のないこととして切り捨て、あっさりと信仰に反対する側にまわり、弾圧者へと変わっていく。それがダニエル書が示唆している警告なのかもしれません。目に見える反対がないこと、迫害がないから、私たちの信仰生活はこれからも安泰であると思うなら、それこそが極めて危険なことでしょう。私たちは、突然の信仰の試練にいつ襲われるかもしれないと気を引き締めて歩む必要があるのです。


2,信仰者ダニエルからの敵に対する攻撃

 では、次にダニエルの行動を見ていきましょう。10節「ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた」。いくつかのことに注目しましょう。一つは、「その文書に署名されたことを知って」というところです。知っていたのに、彼は「日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝を」ささげました。禁令を「知って…自分の神の前に祈る」。それがダニエルです。私はここを読んで何か爽快なものを感じましたし、その大胆不敵さに、信仰というものが、これほど攻撃的で過激なものであることに目が開かれました。法令を知って、おとなしく窓を閉めて密かに遠慮しつつ神に祈ることもできたでしょう。また禁令は三十日間の期間限定で、約一ヶ月辛抱し、波風立てずに振る舞うこともできたでしょう。しかし、ダニエルは「知って…神の前に祈り」、窓が開いている中で礼拝しました。なんと大胆な信仰なのでしょう。空気を読み過ぎる時代、他人から敬遠されないように配慮し、注意深くことばを選ばなくてはいけない時代です。でも、もしかするとそれが私たちの信仰を窒息させ、臆病で無力なものにしているのかもしれません。
 二つ目に、「彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき」です。これは信仰の習慣化を教えています。ある説教者は6章のタイトルを「多忙な人のデボーション生活」としました。確かに、ダニエルはこの時、大臣職にあり、その仕事は超多忙なものだったでしょう。一分一秒を無駄にできない人が、当たり前のようにして「日に三度ひざまずいて」、神を礼拝していたというのです。この「三度」は、詩篇55篇17節にあるように、朝昼晩の三回でした。ボイス師が次のように記していることは、この箇所のまとめとして的を射ていると言えるでしょう。「私たちにはもっと多くのダニエルが必要です(We need more Daniels.)。神と信仰に対する認識を誰にも憚ることなく持ち出す人、自分の窓を開けて、見ている世界の前で神を敬うことを厭わない人がもっと必要です」(ボイス・コメンタリー『ダニエル書』)。 ダニエルは、いつも主を前にして生きていたのです(詩篇16:8)。