詩篇 23:1ー6
礼拝メッセージ 2023.5.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,主は私の羊飼い
神と私との関係は、羊飼いと羊のようである(1〜4節)
詩篇23篇は、詩篇全体の中で多くの人々によって最も愛されているものであるばかりか、おそらく聖書全巻の中でも最も大切に暗唱されている聖書箇所であると思います。C.H.スポルジョン牧師はこれを「詩篇の真珠」と呼びました。この詩篇は前半の1節から4節が羊飼いと羊の比喩であり、後半5節から6節が宴を開く主人と招かれた客というたとえで、神と私たち人間との関係性を描いていることは明らかです。そのどちらもが、世話をされる側の目線、羊あるいは客の視点で描かれていることがわかります。
羊飼いという仕事は、日本ではあまり見ないものですが、イスラエルでは昔から誰でも知っている馴染み深い働きでした。聖書の中によく出て来る職業の一つで、詩篇作者と見られるダビデも元々羊飼いをしていました。もしかすると羊飼いのイメージは、降誕劇や、絵画にある牧歌的印象が私たちにあって、その仕事自体、穏やかでのんびりしたものとして考えやすいと思います。しかし、古代イスラエルにおいて羊飼いの仕事は、祭儀律法を守ることができないということもあって、すべての働きの中で最も低い立場に置かれており、さらにたいへんな重労働でした。
羊飼いの働きが必要な家では、いつもダビデのような末っ子がこの面倒な仕事を任されました。羊の世話に終わりはなく、ずっと羊とともにいなければならないのです。夏も冬も、昼夜を問わず、天候が良くても悪くても、羊飼いたちは羊に対する責任を持ち、常に栄養を与え、導き、保護するために休むこともなく労苦したのです。このきつくて、やっかいな仕事を自分から進んでやりたい人がいるでしょうか。神は、私たちという手間のかかる弱く迷いやすい羊のためにその飼い主になってくださったという恵みをこの詩篇は語っています。
ヤハウェは私の羊飼い
「主は私の羊飼い」というときに、もう一つ付け加えておかなくてはならないことは、この「主」は「ヤハウェ」ということばであるということです。「新改訳聖書」では太字になっています。ユダヤ人はここを「アドナイ」(わが主)と読み替えて朗読しました。これが1節と終わりの6節だけにあり、ほかの「主」と訳された語は、すべて三人称単数の「彼」という代名詞になります。旧約聖書で4000回以上出て来るとされるこの「ヤハウェ」という神の御名は、出エジプト記3章で説明されるとおり、「『わたしはある』というものである」ということから来ています。つまり、「わたしは有りてある」とは、神は永遠の方であり、時によって変化せず、何にも全く依存する必要のない自主独立の存在者であるということです。この偉大な創造主である方がこの小さな私という者をお世話してくださるという告白が、この詩篇が語る神信仰です。
神と私との関係は、主人と客のようである(5〜6節)
5節から比喩の内容が変わり、危険な敵の前から逃げる者を自らの天幕に迎え入れ、幸いに満ちた食卓に招待する主人として、神が描かれます。主人は彼のために素晴らしい食卓を準備し、彼の頭に香油を塗り歓迎し、祝福の杯にぶどう酒を満たしてくださるのです。それは敵に追われて必死に逃げて、心も体も疲れきった者にとって、何という恵みでしょうか。身の安全と休息が同時に与えられ、それが最高に贅沢なかたちで用意されています。「放蕩息子」のたとえ話を思い起こしました(ルカ15:22〜24)。一文無しになった放蕩息子が哀れな身なりで父の家に帰ります。彼は父から愛の歓待を受け、清潔で高価な服、そして良い履物、輝くアクセサリーに身を包んでもらいます。そして彼の無事の帰還を皆が喜んで、盛大な祝宴が始まるのです。この比喩において、神は有力な部族のかしら(頭)、その家のあるじ(主)として、逃げ込む私たちを迎え、守り、導いてくださることを示しています。
神とイスラエル、キリストと教会
旧約聖書において、この神と民との関係性は、羊飼いと羊の関係としてよく表現されましたし、新約聖書では主イエスがご自身を「良き羊飼いである」と語られ、私たち教会を「羊飼いの声を聞き分ける羊である」ことを明らかにされました(ヨハネ10章)。もちろん、このような関係は、私たち一人ひとりが「神と私」、「イエスさまと私」という個人的な絆をいただいていることを確信させてくれるものです。この詩篇をよく見ると、前半は主(ヤハウェ)である神を「彼」と三人称で賛美しますが、4節から「あなた」という二人称に変わります。
その「あなた」の表現の始まりは、「あなたが、ともにおられますから」という文章です。ヘブライ語では「キー・アター・イマディ」という3つの単語ですが、これを境にして、詩人は主を「あなた」と呼んでいます。さらに言うと、この3つの単語からなる文章の前に26の単語、うしろにやはり26の単語でこの詩篇は構成されています。ということは、詩篇23篇の中心に位置する単語は「アター」(あなた)なのです。つまり、この詩篇は、神を「あなた」と呼ぶ信頼関係に飛び込んでいけるかどうかが、まさに信仰なのだということを教えています。
2,私は乏しいことがありません
休息を欠くことはない
何も欠けることがないということの第一は、休息あるいは安息を欠くことはないということです。2節「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」とあります。フィリップ・ケラーという8年間、文字通りの羊飼いをしていた牧師によると、4つの条件を満たさなければ、羊を寝かせることはできないと言います。一つ目に、羊は臆病ゆえに恐怖心をなくすこと、二つ目に群れで生活するため同種類の仲間との触れ合いが必要なこと、三つ目にハエや寄生虫などの害虫を除くこと、四つ目に食物が必要な量だけあることだそうです。こうした条件が整ってからでないと羊は安心して休息を持てないのだそうです。しかし、その必要に応えることができるのは羊飼いだけなのです。神は私たちが十分に休めることに心を向けてくださる良き羊飼いです。
導きを欠くことはない
第二に、詩人は導きを欠くことはないと語っています。4節「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません」。その理由は先に見ました通り、「あなたが、ともにおられますから」です。渓谷は豊かな牧草地であり、水も豊富ですが、危険な場所でもあるということです。谷間には羊を狙う獣が潜んでいたり、突然の豪雨で増水することもあるそうです。しかし、いかに危険であろうとも、死に向かおうとも、「乏しいことがない」私たちは、主がともにいてくださるので、恐れずに歩めるのです。新聖歌474番「主がわたしの手を」の折返しはこう歌います。「優しい主の手に、全てを任せて、旅ができるとは、何たる恵みでしょう」です。私たちもそのように賛美して歩みましょう。