詩篇 28:1-19
礼拝メッセージ 2017.8.13 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
この詩篇の内容は,1-5節と6-9節に分けることができます。前半は,詩篇著者の危機と悪なる者に対する主の裁きの嘆願が書かれています。後半の6-9節では,主の助けの約束が述べられています。
敵である者たち
まず、主が岩に譬えられています。これは,民が神を礼拝したエルサレム神殿の下に置かれた岩を指していると考えられているようです。つまり,神殿に住む主なる神への願いということになります。
詩篇著者は,主なる神に聴いて欲しいと願います。耳を傾けてくれと懇願します。そうでなければ,自分は死者と同じ者となると言っています。つまり,主が聴いてくれないのなら,もう希望はない,絶望しか残されないと告白するのです。
悪なる者が詩篇著者を危機に陥れようとしています。悪なる者とは,外側は味方に見えてもその心は詩篇著者に逆らう者です。悪なる者は,偽善者とも言えるでしょう。また,悪なる者は、主を無視し,主の業を軽視する者です。当時は全ての人々が主を礼拝していました。しかし、全ての人が主を心から求めていたわけでも,主の命じられた生き方を真剣に生きたわけでもなかったでしょう。悪なる者は,主に対しても偽善的な態度を取っていたことになります。そのような悪なる者は裁かれて欲しいと詩篇著者は願うのです。
主は力
主が力と盾とに譬えられています。主が私を守る者として譬えられています。主には守るだけの力があります。悪なる者の罠から助け,私を危機から救う神です。また同時に,主は私の民,私の仲間,私が共に生きる人々を救う神でもあります。主は油注がれた者を救います。この油注がれた者とは,ここでは王を指していると考えられます。王はその民族を代表するものであり,主が王を救うことは民を救うことをも意味します。
主は救う
主である神はなぜ私たちを守ってくれるのでしょうか? それは,主は苦しみが起きることを認めず,痛んでいる人々をその苦しみから解放する神だからです。神の性格・価値観なのです。だからこそ,神を無視して、人々に苦しみをもたらす者(それで平気な者)を悪なる者として受け入れないのです。
この世界には様々な神々が拝まれています。各々の神にはそれぞれの性格・価値観があります。神の名を使わないさまざまな考え方もあります。聖書の神は人々に深く関わろうとし,人の生き方を変えようとします。それは,神が人間を縛るためでなく,人間が人間として生きていくこと,人間の尊厳を守ろうとする神だからです。
このような神の救いの働きと言葉は,ある人々にはお節介かもしれません。ただ神は人間を求めているだけです。人間らしく歩んでほしいと望むだけです。人間は自己中心的な生き方を捨てることができないでしょう。その自己中心の生き方が,神を無視した者を無視する生き方となります。そこに,尊厳を損なわれた者の苦しみが起きます。また、神と他者の尊厳とを傷つけた者自身も苦しむのです。
そのような苦しみから神は私たちを救うと約束します。神は人を救うために力を持ち,盾となります。その救いの業は,私に実現します。私たちには様々な人生の危機や問題が起こるでしょう。人間関係,健康,事故,仕事,家庭などなど。私たちが解決すべき問題があるかもしれません。あるいは,問題自体は解決しないかもしれません。私たちが変わらなければならない問題もあるかもしれません。そこに私たちが違った形で,本当の意味で救いを実現するのが神です。問題がすぐに解決するにしても,私たちが何も変わっていなければ,同じような問題が起きた時に同じ苦しみを経験し,他者に同じ苦しみを与えることになるでしょう。
救いは個人だけに起きるのではありません。私の救いは隣人に,社会に広がっていきます。私が神によって救われ私が変わる中で,私に関わる人々が変わっていきます。社会も変わるかもしれません。その人たちが,他者を大切にしようとする神の生き方を求めるようになります。私が救われることとの意味は,隣人・他者が救われていくことを意味します。