「主は来られる」

テサロニケ人への手紙 第一 5:1ー11

礼拝メッセージ 2022.11.27日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,アドベントとは、「主は来られる」ということ

 待降節、アドベントを迎えました。アドベントとは、クリスマス前の四番目の日曜日から始まる期間を教会暦でそう呼んでいます。「アドベント」(Advent)ということばは、ラテン語で「到来」を意味するアドべントゥス(Adventus)という語から来ています。ギリシア語では、この「到来」あるいは「来臨」のことを「パルーシア」と言います。テサロニケ第一の手紙では、2:19、3:13、4:15、5:23にその語があり、「(再び)来られるとき」や「来臨」と日本語では訳されていることばです。今から二千年前にキリストは到来されました。アドベントはそのことを喜び備えるとともに、再びキリストが到来されること、主の再臨を覚えて、それを待ち望む時でもあります。今日の聖書箇所、テサロニケ人への手紙第一5章のところは、4章13節からの続きで、主の来臨に備えて、どう生きるのかということが語られています。文章から読み取れることは、当時のテサロニケの教会の人々が持っていた疑問や不安に答えるかたちで、パウロが語っています。キリストが再び来られる前に地上生涯を終えた人々はいったいどうなるのかということ、それから、来臨のときに生きている信仰者である私たちはどうなるのかということでした。
 前者の質問の答えは、4章13節から18節に説明されています。そして後者の問いに対しての答えがこの5章1節から記されています。主イエス・キリストが来られる「主の日」に自分たちは立ちおおせるのかという恐れと不安に対する回答です。


2,「主は来られる」ことを信じているか

 ここを読んで、私が衝撃を感じることは、パウロが1〜2節に「その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」と書いていることです。つまり、パウロが詳しく説明するまでもなく、彼らテサロニケ人の教会の人々は、主が来られることについて、すでに正確に知っていたし、そのことを信じてもいたということです。しかし、今回ここを読みながら、この21世紀の混沌とした先の見えない時代にあって、信仰生活を送っている自分は「主は来られる」ことに確信を持って歩めているのか、また教会におられる皆様はどうなのかと改めて問われているように感じました。信仰を持っていても希望を見失うほどの厳しい状況に囲まれている現代で、果たして「そのことについて書き送る必要がない」とか、「あなたがたはすでによく知っている」という前提で、この箇所を読むことができるのだろうかと、自分を含めて考えてしまったのです。


3,「主は来られた」ことと、「主は来られる」こと

 そこでキリスト教会の長い歴史において、過去の信仰者や教会はどうであったのかを考えると、このクリスマスを迎えるときにこそ、「主が来られた」ことと、「主が来られる」ことを重ね合わせて黙想したことに意義があることに気づくことができました。再臨を希望とするためには、初臨のことを思い起こすことがその鍵であるということです。マタイの福音書やルカの福音書には、キリストであるイエスのご降誕の話が記されていますが、その時代のユダヤの中で大多数の人々は、キリストの来臨を知らなかったし、信仰をもって期待し、待ち望んでもいなかったことが明らかにされています。ほとんどの人々は、主の来臨を歓迎しないばかりか、彼を恐れ、驚き惑い、亡き者にしようと行動したことが記されているのです。
 しかし、すべて新約聖書の一つ一つの書は、キリストが到来されたということを宣言し、証ししているのです。そして私たちの誰もが、キリストは確かに二千年前にユダヤのベツレヘムに来られ、ナザレで暮らされ、ガリラヤとユダヤ、エルサレムで伝道され、私たちのために十字架にかかられ、死なれたことを知っており、信じています。そして主は、三日目に死者の中からよみがえられ、四十日間、弟子たちや人々の前に現れ、天に昇り、神の右の座に着かれたのでした。そしてキリストは繰り返し語られました。「わたしはすぐに来る」と。第一のアドベント(主の到来、来臨)を知り、信じている私たちは、第二のアドベントについても確信して良いのです。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:28)。


4,「主は来られる」ことを待ち望んで生きる

 キリストの到来は「平和だ、安全だ」と思い込んで、主を信じて待ち望んでいない人々にとっては、パウロが語るように、それは「突然の破滅」(3節)となりますが、待ち望む私たちにとっては、それは全き「救い」のときとなります。パウロはここで、光と暗闇、昼と夜、酒に酔う者としらふの者、という比喩的対比を使って、私たちがどのようにして「主が来られる」ときに備えれば良いのか、どう生きることが必要なのかを教えています。「暗闇」、「睡眠」、「飲酒による酩酊」という表現は、「主が来られる」ことを知らず、主を待ち望むことのない、そしてそれゆえに究極的な希望を持たない人々のあり方を示しています。パウロがこうしたことを書いた理由は、もしかすると、キリスト者であっても、この救いの希望を待望して歩んでいないのなら、一時的で表層的な「平和と安全」に信頼を置いて生きていることになり、「暗闇」、「睡眠」、「飲酒」で特徴づけられるような生き方に落ちていくことを警告する意味もあったのでしょう。
 しかし、私たちは「主が来られる」ことを確信し、すでに世界は神がご支配される、キリストをかしらとした新しい光の世界に突入しつつあることを知っています。神の国が来ている、だから夜明け前であっても、光の子ども、昼の者として生きるように導かれているのです。文芸評論家の井上良雄氏が講話の中で、現在のわれわれの歩みは、暗い部屋の中で窓にカーテンが降ろされている中で過ごしているようなものであると語っています。部屋の外では光がまばゆく輝いていますが、私たちはカーテンの降りた暗い部屋の中にいるのです。しかし、外は日が昇り、明るくなってきていることは、その部屋にいてもわかるのです。なぜなら、カーテンの隙間から光が漏れているからです。神の真実が、光である主ご自身が来られるのです。ベッドで惰眠を貪り、酒に溺れていてはいけないのです。パジャマを脱いで、光の子どもらしく、昼の者として、信仰、愛、希望という名の武具を身に着けて、立ち上がるのです。
 10節には、なぜそのような生き方が求められるのかが、明確に記されています。言い換えると、これが私たちの生きる目的であると言っても良いでしょう。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」 私たちは今もこれから後も、ずっと主とともに生きるのです。それにまさる幸いはありません。