「主の恵みを忘れるな」

創世記 35:1ー15

礼拝メッセージ 2019.12.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,信仰に立ち返る

 ヤコブ(イスラエル)の生涯をたどって見てきましたが、ひとまずここで終わりにしたいと思います。彼の生涯が争いや戦いの歩みであったこと、そして信仰の意味においては彼が真に戦っていた相手とは、他ならぬ神ご自身であったことなどを見てきました(ペヌエルの経験)。そしてそれは、彼の子孫である人々、神の民イスラエルにも当てはまることであり、ひいては今日の私たちキリスト者一人ひとりに対しても、また教会にとっても言えることです。信仰生涯というものは、神との格闘です。私たちは人生の中で、神とレスリングするようにして歩むのです。神に体当りするようにして問い続けてぶつかります。また、私を祝福してくださらなければ決して去らせないと頑張って、必死に掴んで離さないのです。つまり、人生で起こるすべてのこと、それが喜びであれ、苦難であれ、神と切り離して考えずに歩むのです。そうすると、当然のように出て来る思いは、神よ、どうしてですかという問いです。そして助けてください、祝福してくださいと、しがみつくように懇願するときもあれば、怒りや不満をもって神を責めることもあるでしょう。
 でも、大事なことは神があなたを見捨てていないのに、あなたが神を捨ててしまわないようにということです。本日の35章は、信仰が霊的に落ち込んでいる、霊的に低迷している、信仰者の誰もが経験することについての励ましと勧めが記されています。
 35章1節を見ましょう。「神はヤコブに仰せられた。『立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。』」。これは28章のことをただ回想していることばではありません。神が彼に信仰の原点に再び立ち返るように命じておられるのです。私たちも、初心に帰ることは必要です。過去を懐かしみ、今という現実から逃避するために戻るのではなく、神と自分との関係を見つめ直して、霊的温度を再び上げるためです。パウロは自らの命の終わりを思って、弟子のテモテにこう書きました。「私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ1:6)。教会全体に向かってのこのようなことばも記されています。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:3〜4)。あなたにとってのベテル、神の家に再び帰りましょう。


2,信仰を磨く

 ヤコブが神からベテルへ帰るように言われた時、彼は自分の家族と一緒にいる者たちにこう言いました。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい」(2節)。これは、年数が経ち、罪や汚れがいっぱいになった自分なんて、神はもう受け入れてくださらない、という意味ではありません。むしろ受け入れてくださるし、受け入れられているから、霊的に不要なガラクタや重荷は捨てて、身軽になって歩むことが求められているのです。ヤコブがラバンのもとで働き、結婚し、子どもたちが与えられていく中に、実際の物品としての偶像や、心の中においての罪や汚れが、いろいろと家や心を占領するようになっていったのでしょう。また、彼らがラバンのもとを去っていく際にも、妻のラケルが小さな偶像を盗み出し、持ち去りました。
 私たちも心の中を点検し、信仰の妨げや霊的生活において邪魔になるものは、気持ちを一新するためにも、時々整理が必要です。ヘブル人への手紙に次のように記されています。「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい(ヘブル12:1〜2)。


3,信仰のことばを聴く

 9〜15節のところに目を留めると、神の家に戻って来たヤコブは、そこで主の約束を再び聞くことができたことがわかります。その内容は、すでに彼に対して告げられていたことでした。そういうことからすると、これは契約の更新であったし、さらなる確認のことばであったことになります。第一に、「イスラエル」という新しい名に変わったということ。第二に、子孫の増加の約束、そして第三に土地の約束でした。13節で「神は彼に語ったその場所で」とありますが、このことばはほとんどそのまま、14節と15節で繰り返されていることがわかります(14節「神が自分に語られた場所に」、15節「神が自分と語られたその場所を」)。読者に、この場所で何があったのかを強調して示しているのです。何があったかと言えば、それは「神が彼に語られた」ということです。今日も私たちに対して、神は語っておられます。そして多くの場合、神は聖書を通して、私たちに語っておられるのです。


4,信仰は永続する

 16節から最後の29節についても触れておきたいと思います。まず、ここに人の生死についての記事があります。8節にもリベカの乳母デボラの死が書かれていました。16節からはさらに、最愛の妻ラケルの死(19節)、そしてイサクの死(29節)が記されています。そしてベニヤミンの誕生もありました(16〜18節)。それから、ルベンの罪のこと(22節)も書いています。また、もう一つのことは、イスラエルの息子たち十二人の表です(22〜26節)。ここにイスラエル十二部族のルーツとなった人々が勢揃いしたのです。このあとの旧約聖書のほとんどは、これら十二人の子孫たちが中心になって、話が進んでいくことになります。そういう点から言えば、ここからイスラエルの全歴史が始まったと言えるでしょう。これら人の生死についての記事と、イスラエルの息子たち十二人の記録から、何が語られているのでしょう。35章の最初のところからの流れで考えると、それはこのイスラエル、神の民の信仰は、人の生も死も罪も、すべてを越えて継続していくということです。信仰は、人間の地上生涯の尺度を超えるものです。さらに言えば、人間のどんな罪や失敗も、どれほど大きなアクシデントや出来事さえも、神の民の信仰に終止符を打つことはできないし、終わりをもたらすものではありません。確かに、いつまでも残るものは、信仰、希望、愛なのです。