「主の山に近づく」

詩篇 24:1ー10

礼拝メッセージ 2023.5.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,すべてのものは、主のもの(1〜2節)

 この詩篇は、神を「栄光の王」として聖所に迎え入れる賛美とされています。ダビデに由来するとすれば、契約の箱(「主の箱」)がダビデの町に運び移されたときの出来事を覚えての賛美であるのかもしれません(Ⅱサムエル6章)。この詩篇は、祭司と会衆とが交互に朗唱するように、「だれが、主の山に登り得るのか」(3節)、「栄光の王とは、だれか」(8節)という問いかけのことばがあり、それに応答する形式になっています。三つの部分に分けられ、1節から2節は、創造主である神のことが記され、3節から6節はその神を礼拝する者の条件が言われ、最後の7節から10節には栄光の王である主を迎えることが述べられています。
 1節の文章「地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの」ですが、ヘブライ語聖書では、文頭のことばが「主のもの」(ラドナイ)になっています。「レ」という前置詞と「ヤハウェ」(あるいはアドナイ)が繋がったことばです。1節と2節には「だれか?」という問いの文章は含まれませんが、私はこの詩篇がいきなり「主のものだ」と語り出すのには意味があり、いわば行間を読むように、語られた背景を想像する必要があると思います。なぜ最初に「主のものだ」と作者は言ったのでしょうか。
 「地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの」とは、この世界に存在するもの全部ということでしょう。地理的空間、そこに存在する大地や海、人間も動植物も、ありとあらゆるものがこの中に含まれています。それはすべて、主である神のものです。人間はこの被造世界を管理するように委任された存在でしかありません。ところが、いつの間にか、自分の所有物と思い込み、好き勝手に使ったり、濫用したり、破壊したりして、御心に背いて思いのままにしています。
 2節で「主が、海に地の基を据え、川の上に、それを堅く立てられたからだ」と詩人は語ります。この「海」や「川」は、ふつうに自然として存在する河川のイメージを言っているのではありません。古代において、「海」や「川」というものは、正しく秩序立った世界を脅かす混沌の力と見られていました。そのカオスの悪しき力を制圧し、地の基を据えられた力あるお方として、神がここで語られています。そのようにして秩序ある世界を生み出し、造り出した神こそが、すべてのものを所有し、支配し、生かしておられるということなのです。詩篇46篇10節に「やめよ。知れ。わたしこそ神。」という神ご自身が戦いを終結させる厳粛なことばがありますが、1節の「主のもの」の発する響きは同じぐらいの強さをもって迫ってくることばです。「すべてはわたしのものだ!」と主権者である神が、だれに対してもそう宣言されています。この世界でどんなに大きな権力を持っていようとも、財力や能力を持っていたとしても、主の前に人間である私たちは、実は何一つ所有してはいないのです。すべては「主のもの」(ラドナイ)なのです。それをわきまえ知ることから信仰は始まり、礼拝の心が生まれるのです。


2,だれが主の山に登り得るのか(3〜6節)

 1節と2節のとおり、すべてを造り、支配し、保持している偉大な主を前にして、私たち人間はどうすれば、このお方に近づくことができるのでしょうか。それが3節の「だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか」ということです。「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」とアウグスティヌスは『告白録』に記していますが、同じところで彼は、神が「賛美したいという気持ちに私たちの心を掻き立てる」とも言いました。また、カルヴァンは、私たち「人間はすべて、神を知るために生まれた」と書いています。私たちの本来持っている魂の渇きは、神を知り、神を礼拝し、賛美することによってしか、満たせないものです。
 この詩篇では、それを神からの「祝福」、「義」と表現していると言って良いでしょう。主の山に登らなければ、御前に立たなければ、人はそれを得ることはできないのです。ところが、創造主である神は、聖なるお方であり、汚れた罪深い人間が近づくことなどできない存在です。御前に立つ条件は、「手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人」(4節)と書いています。
 「主の山に登り得るのか」と問われて、自分の行状を振り返ると簡単に「はい」とは答えられないと思います。しかし、よく見ると、6節に「これこそヤコブの一族。神を求める者たち、あなたの御顔を慕い求める人々である」と述べられています。ここで「ヤコブ」の名が出て来ることに注目しましょう。ヤコブの一族とは、イスラエルを指しています。旧約聖書からわかることは、ヤコブ、イスラエルの子孫である民は、長い歴史の中で主の御前に立つことの条件に違反し、失敗を重ねてきました。しかし、この詩篇は言います「これこそヤコブの一族」と。
 「ヤコブ」や「ヤコブの一族」その子孫が、なぜ主の民となり、主からの祝福を受け、義を受けると記されたのでしょうか。それは彼らがどんなに失敗しようとも、この後のことばにあるように、「神を求める者たち」であり続けたからにほかなりません。彼らは違反し、コースアウトしても、また立ち上がり、「御顔を慕い求める人々」として歩みました。もちろん、それがあれば4節の条件はどうでも良いということではなく、御前に「良い行いをするために造られた」(エペソ2:10)という正しき道に常に戻ってこられる者になっているということ、悔い改めて主に立ち返れることが重要なのです。


3,栄光の王とは、だれか(7〜10節)

 栄光に輝く王が戦いに勝って、帰還されたという情景を思い起こさせる文章が記されています。ここでの問いかけは、「栄光の王とは、だれか」(8、10節)です。その答えは、「強く、力ある主。戦いに力ある主。」(8節)と、「万軍の主」(10節)です。1節と2節のところですでに見ましたように、混沌を引き起こす悪の勢力を押さえつけて倒し、完全に征服してしまう方として神が語られてきました。まさに神である主は「栄光の王」であり、「戦いに力ある主」、「万軍の主」なのです。
 新約聖書の視点で見ると、イエスのエルサレム入城の出来事がここに重なって見えます。人々は棕櫚の枝を振って、ろばの背に乗った主イエスを「ホサナ。主の御名によって来られる方に」と迎えたように見えました。しかし、人々はその一週間後には、イエスを十字架につけて殺したのです。実は、彼らは「栄光の王」であるこのお方を、この詩篇のようには迎えなかったのです。ペテロがペンテコステのとき、こう語っています。「イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)。そういう意味で考えると、24篇の「栄光の王、それはだれか」という問いは、まだイスラエルにおいては、正しく答えることができていないということです。そしてすべての読者に対しても同じことが言えます。「栄光の王は、だれか」という問いは今の時代においても、なお問われ続いているのです。