「主に洗われた者としての視点」

コリント人への手紙 第一 6:1ー11

礼拝メッセージ 2016.5.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の国の相続者として、あなたがたはやがて世界をさばくようになります(1−8節)

パウロの「?」と「!」

 この聖書箇所6章1−11節を、英語訳の聖書(NIV)で読んでみると、文章の末尾に「?」(疑問符)と「!」(感嘆符)があまりにたくさん出てくることに驚きます。「?」が8回、「!」が2回です。文豪ヴィクトル・ユーゴーと出版社が交わした世界で一番短い手紙を思い出しました。「レ・ミゼラブル」の売れ行きを聞くのに、ユーゴーは「?」の一文字を手紙に書いて尋ねました。すると出版社からは「!」とだけ書いた返事があり、もちろん売れているよという意味を表して、答えたそうです。今日の箇所で同じ表現にすると、パウロはコリント教会に「????????」と繰り返し疑問を投げかけ、さらに「!!」と強く促しています。疑問形でこんなに多く語るところに、コリント教会に対するパウロの激しくも熱い思いを読み取れます。それはこの群れを何とか元気にしたい、健全にしたいという愛情から生じた表現であったと思います。実際に、教会内のもめごとが、裁判沙汰になってしまっていたのか、それとも、そうなっていきそうな状況があったのかは、明確なことはわかりません。また、どういうことが原因で訴訟騒ぎとなったのかもわかりません。

教会が教会として機能する

 パウロがここで語っていることの中心は、キリストのからだとされている教会が、正しく教会として機能するようにということです。問題が起こった時にそれを教会の中で解決できる群れでありなさい、と使徒は主からのメッセージを伝えているのです。なぜなら、2−3節にあるように、神の国の相続者とされ、信仰の共同体とされているクリスチャンたちは、未来において、この世界をさばき、御使いさえもさばくことになるのですから(参考;黙示録20:4,6)。このような終末的な見方は大切です。神が定められた確かな未来の姿から現在のあり方を見つめなおすのです。私たちの偉大なAuthor(著者/創始者)はすでにストーリーの結末を決めておられます。ですから、それに基いて、結末にふさわしく登場人物は「今」を生き、行動する必要があるのです。3章3,4節でパウロは「ただの人」と書いて、キリストのからだに加えられた私たちは「ただの人」ではいけないと言いました。普通の人以上のレベルが、神の国の相続者である私たちには要求されているのです。

神の家族に勝ち負けは存在しない

 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です」(7節)も厳しい言葉です。教会の中においては、訴え合うことに、あるいは争い事に、何の勝ち負けもなく、どちらにしろ両負けであると言われています。あえて言えば、勝ったと思った瞬間に敗北しており、反対に、勝つことを譲り、相手を赦し、負けているほうが、表面的にどう見えようとも、それが勝ちとなるのが、信仰の世界です。5−6節で「兄弟」という表現を使うことで、教会が神の家族であるとの認識を持つように促しています。一つ屋根で暮らす家族であるならば、互いの間に、何の優劣も勝ち負けも存在しないからです。そこに愛と戒めがあり、赦しと悔い改めがあるのが、家族です。


2,神の国の相続者となるために、あなたがたは洗われ、聖められ、義とされました(9−11節)

あなたがたはまさに洗われた

 11節後半の「あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」は、原文で「洗われ」「聖なる者とされ」「義と認められた」の一つ一つに「しかし」(あるいは、「まさに」)(ギリシア語alla)が付けられて強調されています。すべてが受動形で表され、主が、御霊が、それを全部成し遂げてくださったという霊的事実を明らかにしています。
 「洗われた」というのは、新しい人生に入れられたこと、霊的な新生を意味しています。「神は、 私たちが行った義のわざによってではなく、 ご自分のあわれみのゆえに、 聖霊による、 新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)。全身を水に浸す洗礼をすでに受けられた方は、その洗礼のことを思い出してください。水の中に入ることで、象徴的に、罪の汚れから洗われて、新しい人になったのではないでしょうか。

あなたがたはまさに聖なる者とされた

 「聖なる者とされた」とは、内側を新しく聖められ、同時に外側である生活の実際や日常の振る舞いが整えられたことを意味していると思います。9−10節にある「正しくない者」の10個のリストは、それと両極にある姿を示しています。 11節にあるように、以前はそうであったとしても、神は、主イエスを通して、御霊の働きによって、聖なる者としてくださるし、キリストのからだに加えられた人々は、確かにそのようにされたのです。振る舞いや行いは、内側を聖められ、聖なる者とされた結果、外側に現れてくるものです。

あなたがたはまさに義と認められた

 「義と認められた」とは、神の前においての新しい立場を表しています。「それは、今の時にご自身の義を現すためであり、 こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:26)とあるように、喜びと感謝をもって神の御前に出ることを可能にする、神との正しい関係が主イエスによって与えられているということです。