「不信仰な時代」

マルコの福音書 9:14ー29

礼拝メッセージ 2021.5.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,不信仰な時代の中で、悪に翻弄され、絶望しているということ

汚れた霊の恐ろしさ

 この少年に取りついている汚れた霊がどれほど強力であったのかを父親が語っています。「その霊が息子に取りつくと、ところかまわず押し倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。」(18節)。「霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。」(22節)。そして実際、イエスの目の前で子どもは地面に倒れて、泡を吹いて転げ回りました(20節)。22節の「霊は息子を殺そうとして…」とありますが、これは直訳すると「彼(息子)を滅ぼすために火の中に水の中に投げ込む」となります。つまり、汚れた霊の目的は、「殺すため」「滅ぼすため」であると父親は悟っていました。不信仰な時代に働いている悪霊は、人々を破滅に追いやり、滅びに至らせること、ただそのことを果たすために手段を選ばず、あらゆる方法で絶えず攻撃を続け、獲物を仕留めるまで手を緩めることはありません。悪霊と言えばオカルト的なイメージを持つかもしれませんが、そうではなく悪の力、罪の影響力と言い換えても良いと思います。

口をきけなくする霊

 この汚れた霊について父親は「口をきけなくする霊」(17節)と語り、イエスは「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」(25節)と呼んでいます。口がきけず、耳を聞こえなくするというのは、人と人とのコミュニケーションが持てなくなるということです。この少年が苦しんでいることはわかりますが、声をかけても聞こえず、何をしてあげたらよいのかわからず、周りの人たちはもどかしさを抱えたまま、立ち尽くすばかりです。そしてあきらめ、苦しむ者を置き去りにしてしまいます。そこには越えがたい障壁ができ、断絶と孤独が両者を引き離しています。バベルの呪いは、ことばの混乱が生じて互いに話せなくなりましたが、不信仰な時代を特徴づける悪霊の暗躍は、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」として、苦しむ人の口をきけなくし、聞くべき耳を閉ざさせるのです。そのようにして、援助する人々のやる気を取り去り、失望を与えて、すべての力を奪ってしまうのです。

無力感

 この子どもは幼いときから汚れた霊に苦しめられ続け、父親も家族もなんとか助けられないか、救ってやれないのかと、おそらくあらゆることを試したことでしょう。しかし結果として解放されることも癒やされることもなかったのです。そしてこの場面では大勢の群衆がいましたが、彼らもこの不幸を見て助ける手立てを知らず、ただ傍観して無責任な批判を繰り返し、騒ぐことしかできなかったのです。さらに律法学者たちがいました。彼らは信仰の権威者的立場、教師であったわけですが、この苦しむ家族に対して何もできず、何もしなかったと思います。というのも、彼らの関心は元々苦しむ少年にはなく、彼らの立場を危うくする敵であるイエスにありました。彼の弟子たちがこの癒やしを必要としている子どもを救えずに失敗したことから、イエスの宣教とその御力の有効性について疑いをはさみ、どうにかしてイエスたちを失脚させられないかと集まって議論していたのです。では、弟子たちはどうでしょうか。父親は主に訴えました。「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした」(18節)。父親とその家族だけでなく、この子を救い出せなかった弟子たちにも、言いようのない無力感が心を覆っていたと思います。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか」(28節)と彼らは終わりに尋ねていますが、この「なぜなのか」、「どうすればよいのか」ということばは彼らの行き詰まった思いを示しています。不信仰の時代にあっても、信仰者たちはそうした状況を超越した存在となって、「この世がいかに不信仰であっても、われわれは信仰を持っているぞ」と胸を張って威張れるのかというと、実際はそうではありません。信仰者も時代の重苦しい影響下に置かれて、目に見えない閉塞感や束縛を感じて苦闘しているのが現実です。


2,不信仰な時代の中で、不信仰な私が神を信じるということ

おできになるなら

 では、このような不信仰な時代に、いかに生きるべきなのか、どのようにこの困難な時代の中で主のあとに従って歩めるのか、イエスのことばと行動を通して考えましょう。21節から24節のイエスと父親とのやり取りに注目してください。最初に「この子にこのようなことが起こるようになってから、どれくらいたちますか」とお尋ねになっています。父親のその問いへの返答からわかるように、イエスは父親にこれまでの苦しみの経過を思い起こさせて、ここに至るまでの現実に向かい合うようになさいました。父親は悲惨な過去を振り返り、自らが抱いてきた悲しみと苦しみ、無力感と絶望の中、このように懇願しました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」(22節)。この「おできになるなら」は厳密には「何かおできになるなら」という意味で、どんなことでも良いから、わずかでも良いから、主よ、助けてくださいというニュアンスが含まれています。完全な癒やしと回復を期待したいが、これまで味わってきた苦い経験から、また深い失望感から、もし何程かあなたがおできになるならば、助けてくださいと言ったのです。

不信仰な私であることを認めてなお信じる

 しかし、イエスは「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」ときっぱり仰せになりました。ここでイエスは「信じる者」と言われました。不信仰な時代にあって、最も重要なことは信じることであると明言されたのです。でも、不信仰な時代の中に生きている人々にとって、信じることは最も難しいことです。それで父親は必死の思いで叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」(24節)。父親はイエスに促されて気づいたのです。自分が不信仰な時代の中に生き、その時代の空気を吸って歩み、不信仰に浸りきって、不信仰が全身に染み込んでいる者であると(イザヤ6:5)。だからイエスの御力も神の国も信じることのできない「不信仰な私」であると告白せねばならないのです。けれども信じられないこの不信仰な自分を認めた上で、そのような思いを抱いてしまっているこの不真実な私をイエスに助けていただきたいと願いつつ、しかし「私は信じます」と決断するのです。イエスを信じ、自分の十字架を負い、この方についていく。イエスが弟子たちに語られたその道に歩むことは、人の意志力、精神力を遥かに超えているものです。だからこの父親のように言わなくてはならないのです。「信じます。不信仰な私を助けてください」と。そしてその道は神への祈りに向かわせます(29節)。