ダニエル書 9:20ー27
礼拝メッセージ 2024.12.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,ダニエルは主のことばを調べた(1〜2節)
七十週預言とは
ダニエルが祈っている時に、御使いガブリエルが突如飛来し、彼の前に現れ、「七十週預言」のことばが与えられました。ここで一週間の「週」という語が繰り返されますが、この「週」はヘブライ語では数字の「七」です(英訳「七十週」は、「セブンティ・セブンズ」)。「七」と言えば、通常一週間の「七日」のことを言うので、「週」と訳されます。しかも聖書で「七」は完全数として象徴的意味を含めて多く使われています。また、どんな立場の解釈者たちも、「週」を七日間の意味ではなく、「七年」を表すと理解します。ですから、24節などの「七十週」は、「七年」かける「七十」ということで、合計490年を意味していることになります。
それから予め説明が必要なことは25節の訳です。『新改訳2017』では「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される」とあります。しかし口語訳聖書等では、「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週ある…。」となっています。「七週」と「六十二週」との間を分けるか、繋いで捉えるか、という点の違いがあります。ヘブライ語本文ではどちらにでも訳せますが、私はここについては、口語訳聖書が採った「七週と六十二週」を連結した解釈のほうで理解しています。
2,七十週預言のさまざまな理解
この預言はいくつかの見解に別れています。代表的な三つの解釈について簡単に説明します。一つは歴史主義的見解です。それによると、これはアンティオコス四世(在位:前175〜164年)の時代を指していると考えます。バビロン捕囚の開始時期の前六百年頃を起点として、「七十週」(490年)の後を概算すると、前二世紀頃になると云うのです。
第二の見解はキリスト初臨までの預言とする過去主義的見解です。25節の「エルサレムを復興し、再建せよとの命令」をエズラ記7章12〜26節で「アルタクセルクセス王の第七年」に出された勅令(前457年)と考えます。前457年から「七十週」(490年)後は、紀元33年となり、キリストの受難と復活の年であると云うのです。
第三は未来主義的見解です。それによると、25節の「エルサレムを復興し、再建せよとの命令」は、ネヘミヤ記2章1〜8節で「アルタクセルクセス王の第二十年」の命令(前444年)と考えます。しかし、この場合、ユダヤ暦が一年を360日であったとして、西暦(一年を365日プラスうるう年の一日)に換算して476年後とし、それが紀元33年となります。さらにそれがキリストのエルサレム入城の日であるとしています。そして、残りの「一週」はまだ実現しておらず、携挙(空中再臨)のときに、「一週」の預言的出来事が動き出すと考えています。
3,聖書預言の見方について
預言を理解するために必要なことは、第一に、聖書の預言は「重層的なもの」だという見方が重要です。時代の変遷の中で、いくつもの層があり、その中で預言はそれを聞いた当時の人々のすぐ先を照らし、切迫感を与えて導いてきたということです。この「重層的なもの」ということを螺旋状に進むように見る人もあるでしょうし、幾重にも重なり合う山々に見立てて表現する人もあります。したがって、そのようにして歴史は神によって支配され導かれていき、紡がれていくのです。
第二に、聖書の預言は、終わりのない無限ループを繰り返すのではなく、最終的で決定的な成就の「その時」(「主の日」)を必ず迎えるということです。歴史には最終的ゴールがあり、神による「完成の時」が定められています。ですから、ダニエルにとってこの預言は「エレミヤによる七十年」とともに、この先にエルサレムの町が回復し、聖所が建て直されるという希望のことばでした。紀元前の読者たちは、やがて目にすることになるアンティオコス四世の冒瀆と破滅、マカバイによる独立戦争とハスモン朝成立を暗示するものと見えた預言となりました。しかし、同時に「油注がれた者」の登場と、「油注がれた者が断たれる」という、メシアの到来を人々は待望して、この預言を読んだきたことでしょう。主はオリーブ山で弟子たちに言われました。「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているの見たら…」(マタイ24:15)と言われ、紀元70年に起こるエルサレム滅亡のことを暗示されました。それ以後のキリスト者たちと教会は、この預言から再臨前に起こる反キリスト登場による迫害と弾圧を読み取り、最終的に裁かれる神のご介入を信じて来たのです。
4,あなたは特別に愛されている者だ!
最後に、この聖書箇所から、現代の私たちがこれら預言のことばから、何を受け取ることが大事なのかを見ましょう。それを理解する鍵は、23節です。「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。そのみことばを聞き分けて、その幻を理解せよ」。二つのことが注目すべき点であると思います。一つは、「祈りを始めたとき、一つのみことばが出された」というところです。前回お話ししたように、みことばが来て、そしてその応答としての祈りがあると言いました。ここでは、それが巡回しています。初めにみことば、次に祈り、そしてまたみことばが来るのです。この繰り返しこそが主との交わり、主との対話です。神の確かなご支配と導きを信じて、私たちも神との交わりのうちに歩みましょう。
二つ目は、ダニエルが「あなたは特別に愛されている者」と呼ばれていることです。この「特別に愛されている者」と訳されているヘブライ語は「ハム―ドート」で、BDBと称されるヘブライ語の辞書では、「好ましい者」とか、「貴重な者」と語釈され、この箇所をこう訳しています、「あなたは貴重な宝物である」と。これは、その後、数百年先にガブリエルがマリアに対して受胎告知の場面で最初に言ったことばと重なります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)。ダニエルだから、マリアだから、神は「特別に愛されている者」、「好ましい者」、「貴重な者」、「恵まれた方」となさったのではありません。聖書のメッセージ全体から読み取れることは、皆さまも私も、神の御目には同じように、「あなたは特別に愛されている者」なのです。その私たちすべてのために、「油注がれた者」(メシア)が二千年前に送られてきました。そして、「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:28)。