「一度きりの人生をどう生きるか②」

ローマ人への手紙 12:1ー2

礼拝メッセージ 2018.2.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,新しい自分に変わる

自分で自分を変えられない現実

 もっとより良い自分になりたいと思っている人は少なくないと思います。それは成長であり、良い意味での変身願望です。しかし自分で自分自身を良いものへと変えて行くことはとても難しいことを誰でも知っています。失敗を経験し、何とかして、もっと違う自分に変わりたいと願っても、結局は同じ所を堂々巡りしていて、何一つ変わっておらず、成長していないかのように感じてしまいます。そうしたことの積み重ねが、敗北感となり、いつしか変わることをあきらめさせ、絶望的な悲観主義者とし、自らの心を閉ざす者にしてしまいます。
 そういう自分に対するあきらめの気持ちが、周囲の人たちを見るときにも同様な見方となり、どうせ誰も何も変わることがないと、失望の念を強く持ってしまうかもしれません。失望という言葉は、望みを失うと書きます。アメリカの説教者が話していたことですが、英語で、失望はdisappointment(ディスアポイントメント)ですが、appointとは任命することで、それにdisという否定が付いています。任命しない、つまり解任することです。私たちが神の存在を忘れて、失望することは、実は、私たちを愛し、導いてくださっている神を、その役割から解任するようなものだと言うのです。

神に自分を差し出すことで変えていただく

 『新改訳第三版』までの「心の一新によって自分を変えなさい」が、『新改訳2017』から、「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」と受け身形に訳が変わりました。原語では中動態と受動態の形が同じで判断が別れるところです。しかし聖書全体が語っていることを踏まえると、神に「変えていただく」という方がふさわしい感じがします。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)にあるように、私たちを完全に変えてしまわれる方は、神であり、主です。
 新聖歌391番「皆献げまつり」の英語の歌詞は、折り返しがI surrender all(アイ・サレンダー・オール)と歌っています。surrender(サレンダー)とは、明け渡す、完全に降伏して引き渡すという意味です。これは信仰の決断です。どうか神の愛とあわれみを知って、決断いただきたいと思います。神に自らを差し出し、明け渡して変えていただく。そのようにして信仰の一歩を踏み出していくことの意味することが、2節に掘り下げて記されています。


2,この世と調子を合わせない

私たちの毎日を神の御前に置く

 私たち自身を神にささげることの第一は、この世と調子を合わせないことです。私たちは皆、この世界に生きて歩んでいます。それなのに、この世に自分を合わせて生きることは、「神に喜ばれる、聖い、生きた供え物」としての献身を阻むものであることを聖書は教えています。E・H・ピーターソンの『ザ・メッセージ』という題の聖書では、1節の最初を次のように訳しています。「だから、神が助けてくださるのだから、私はあなたがたに何をして欲しいのかをここに記します。あなたがたの毎日(睡眠、食事、仕事、生活の営み)である普段の生活を取って、神の御前に捧げ物としてそれを置きなさい。」ピーターソンの訳にあるように、神にささげて生きるというのは、教会に来ている時のことだけではありません。私たちの毎日を神の御前に差し出すことであり、それはこの世と調子を合わせない歩みなのです。

この世のパターンに従わない

 新改訳聖書の「この世と調子を合わせてはいけません」は、わかりやすい訳です。他の訳では、「この世と妥協してはならない」(口語訳)、「この世に同化してはなりません」(共同訳)、「この世に倣ってはなりません」(新共同訳)となっています。ここの動詞は「同じ形にする」という意味の言葉で、直訳的には「この世と同じ形にさせられてはならない」となります。もっと詳しく文法的に言えば、現在形動詞の否定命令なので、すでに行われている行動を禁止する意味となります。したがって「この世と同じ形にさせられることをストップせよ」とのニュアンスになります。それは、私たちの生き方を変えるように迫るものなのです。英訳のNIVが「もはやこの世のパターンに従ってはならない」となっていて、そのあたりの意味をよく示していると思います。
 他人と違う生き方をするために、人々を避けて別のコミュニティーで生活するということを選択した人たちもいましたが、ここで聖書が語っていることは、この世にありながら、この世と同調せずに生きることなのです。そこには確かに緊張や痛みが存在します。でもそれが天に国籍を持ちながら、地上で生活する歩みであり(参照;ピリピ3:20)、世にあって「旅人であり寄留者」(Ⅰペテロ2:11)として召されている者の道です。


3,神のみこころは何かを求める

 私たち自身を神にささげることの第二のことは、神のみこころを探し求めることです。ミグリオリという人の書いた神学書に「神学は、祝福を欲し、天使と組み打ち、足を引き摺りながら立ち去っていったヤコブの姿に比すべき、挑戦と格闘を続ける不屈の探求であり、追求のプロセスである」(D.L.ミグリオリ著 下田尾治郎訳『現代キリスト教神学』日本キリスト教団出版局)と書いていました。神学というものが、単に伝統的な諸教理を固定体系化して、それを繰り返し語ることではなく、私たちの生きている時代状況や場所などのことを踏まえつつ、生きて働いておられる神の示されている真理、すなわち、神のみこころを求めて、挑戦と格闘を続けながらしていく「不屈の探求」であり「追求のプロセス」としているところに共感しました。
 確かに、完全に神のみこころをすぐに知ることはできないかもしれず、まだまだその追求のプロセスを通らなくてはならないと思います。すぐにわからないから、あきらめてしまうのではなく、むしろ、何が最善か、何が神に喜ばれることであるのかを知るために、もっと神にささげ、もっと祈り、もっと御言葉に聞き、もっと人々と交わり、もっと仕えて、しっかりと考えて探求し続け、主の備えられた光の道を歩むこと、それこそが心の一新によって神に変えられ続けて行く聖化の道筋です。