創世記 19:12ー24
礼拝メッセージ 2019.1.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神のさばきとその警告(1〜14節)
ソドムの罪は何だったのか
悪名高いソドムの名は西洋では、不道徳の代名詞のようになっています。M.プルーストは、20世紀最大の文学と後に称されることになった『失われた時を求めて』の第四篇を「ソドムとゴモラ」と題しました。おそらく、その当時ヨーロッパで忌避されていた同性愛のモチーフがそのあたりから展開されて行くからであると思います。
本日の創世記19章の話では、主の御使いたちがソドムの町を訪れ、ロトの強い勧めで彼の家に泊まります。しかし、その家は町の大勢の男たちに取り囲まれて「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」(5節)と大変な勢いで迫られるのです。後の時代の話ですが、士師記19章にもほとんど同じような事件が描かれています。士師記の場合には、主人の側女が戸の外へ出されてしまい、大勢の者たちからひどい暴行を受け続けて、殺されてしまいます。そうした結末からも考えられるように、これは単に同性愛のことを問題にしているというよりも、暴力的な行動に駆り立てていく、人間のうちに宿っている激しく醜い欲望(もちろん、そこには性的な欲望が含まれています)の罪を表しています。
また、後の預言者によって示されているソドムの罪は、司法的な腐敗状態(イザヤ1:10,3:9)や、傲慢や飽食、安穏とした生活(エゼキエル16:49)、また姦淫や虚偽と悔い改めない心(エレミヤ23:14)を指して糾弾すべき存在とされています。これらの預言者たちの言葉から、ソドムの罪と堕落は決して私たち自身や私たちの社会と関わりのないものではなく、むしろ多くの点で同様な罪を背負っていることを認めざるを得ないと思います。その罪の根本は、「彼らをよく知りたい」(5節)という欲求が、神ご自身と同等な者として見られている御使いを弄び、意のままにしようとしているところに表れています。つまり、その罪の中心は、神への服従を拒絶し、自分の欲望を中心に据えて、自己を神の如き者として振る舞うところにその本質があるのです(創世記3:5)。
さばきは必ず行われるが、その警告は無視されている
こうした悲しむべきソドムの罪に対して、また今日の世界のありさまに対して、神は忍耐をもって、人々が悔い改めるのを待ち続けられますが、ご自身の義をあきらめたり、放棄することは決してありません。「御怒りは彼らの上に臨んで極みに達して」(Ⅰテサ2:16)しまうと、主は必ずさばきを地の上に行われます。そして、そのさばきの前に必ずご自身の使者たちを遣わして、警告を伝えられます。この場合は、アブラハムやロトたちに伝えられました。伝え聞いた彼らは仲介者として執り成しの祈りをし、そして人々に恵みとさばきを宣べ伝えました。ところが、この神からの言葉は、真剣に受け取られなかったのです。「そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。『立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた。」(14節)。真剣にその警告を受け取らないばかりか、多くの場合、語る者を嘲り、侮辱し、迫害するという現実が、聖書の描く歴史においても、またそれに続く教会の歴史においても続いて来ており、今もそれは変わっていません。
神のさばきはいつか必ず行われるというのが、聖書の示すメッセージです。現代が指し示す大災害予想や軍事的脅威や危機等とそれらがどう関係するかはわかりません。しかしそのことが中心的な問題ではありません。むしろ、主のさばきを知ってどう生きるかという点が大切です。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」(Ⅱペテロ3:10−11)。
2,神の救出と世の誘惑
世の誘惑する力
こういう切迫した状況の中、ロトの行動と彼の言動を見ると、その心のうちに躊躇と葛藤があったことがわかります。16節「彼はためらっていた」、18節「主よ、どうか、そんなことになりませんように」、19〜20節「私は山まで逃げることはできません。…あそこの町は逃れるのに近く、しかもあんなに小さい町です。どうか、あそこに逃げさせてください」。ロトは世と世の欲に惹かれていたと言えるでしょう。別の方向から見れば、ロトを取り巻くこの世の誘惑の力はあまりにも大きかったということです。すべての人がこの力に魅了され、信仰者として骨抜きにされてしまう危険の中に生きています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」(Ⅰヨハネ2:16〜17)。
うしろを振り返るな!
ですから、この話の中で、御使いたちが語った17節の警告「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」は、今のこの時代にも有効なのです。26節でロトの妻はその警告に従わず、振り返ったため、塩の柱になったことが記されています。「その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」(ルカ17:31〜33)。創世記19章17節の「いのちがけで逃げなさい」という言葉を直訳すると「あなたのいのちのために逃げなさい」となります。この「いのち」というヘブライ語はネフェシュという語で、ギリシア的な肉体と分離した霊魂という意味はなく、充足を渇望する人間の欲求や生命力のようなものを表すそうです。その理解から御言葉を見ていくと、ロトの妻を忘れるな、という警告の意味は、真の満足感を与えることのないもの、自分のいのちや魂を満たすことのできない、いつか過ぎ去って行く虚しい世のものに執着することなく、本当の満たしを与えてくれる神ご自身にのみ目を注ぎ、生きよということでしょう。主はその深いあわれみにより、私たちが滅びより免れるため、手を握って引っぱり出し、救ってくださるのですから。