ヨハネの福音書 1:1ー5
礼拝メッセージ 2018.12.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,ロゴスは、初めから永遠まで存在される神(1〜2節)
ロゴス(ことば)という表現
タイトルでは、「ことば」と訳されている単語を、原文ギリシア語の音訳でロゴスとさせていただきました。ご存知のようにロゴスは、これまでいろいろな表現で翻訳されてきました。ヨハネの福音書の最も古い翻訳であるギュツラフ訳では「かしこきもの」と訳され、ヘボンやブラウン、奥野昌綱の訳では「言霊」(ことだま)となったり、現代では新改訳がひらがなで「ことば」と書き、漢字一字で「言」(ことば)と表現する訳もあります。ゲーテの「ファウスト」の中に、悪魔メフィストに初めて出会う書斎の場面で、ファウスト博士が一生懸命考えていたのは、1章1節のロゴスをどう訳すかということでした。「こう書いてある。『初めにことばがあった!』早くもつまずく!誰か力を貸してくれないか?「ことば」をそう重くみることは、わたしにはできぬ、もっと訳し方を変えねばなるまい、霊がわが心眼を開いてくれたのなら。」(『ファウスト』小西悟訳 本の泉社)。こうして、次に「こころ」と訳そうとし、次に「力」として考えているうちに、突然ひらめいてこう訳します。『初めに行動があった!』ゲーテの博識と着眼点の鋭さには驚くばかりです。ロゴスとは、どう表現すれば良いかを考えるために、ロゴスとは何であるのかを明らかにしておきたいと思います。これは、この福音書を続けて読めば、だれでもそれが何を指していたのかが明らかであると思います。ロゴスとは、神の御子を指しています。しかし、直接にイエス・キリストとしていないのは、この「初め」においては、まだ地上に「人間」となって現れていないからです。先在(プレエグジステンス)のキリストです。それから、気をつけたいのは、著者ヨハネはあえてロゴスの正体を明らかにしないまま、この序の部分では、長くその文章を続けているということです。これは、私たちの誰もが何とかして他の人々にお伝えしたいお方であるキリストを、どういうふうに表現して説明できるだろうかという観点に立てば、著者がなぜロゴスと書いたのかがわかります。日本であれば、あなたの信じている神とはどういう方ですか、あるいは、あなたは神という存在をどんなものであると考えているんですか、という問いへの答えとして考えるとヨハネの考え抜かれたロゴスという表現の重みがわかるかもしれません。
なぜ神の御子をロゴスと表現したのか
なぜ、神の御子をロゴスと表したのかについては、いろいろ理由があると思いますが、一番の直接的なところでは、ロゴスとは「言葉」(Word)ですから、人と人との伝達手段そのものです。神が、そしてキリストが、ロゴスであると表現した重要な意味は、聖書が記している神とは、あるいはキリストとは、私たちとコミュニケーションをはかられるお方であるということです。ロゴスなる神は、平安で慈悲深いお顔立ちをして、高い所に鎮座して、ただ黙って見ているだけの物言わぬ神仏の像とは異なっています。実に、私たちに語りかけ、交わりをすることを切望され、私たちの祈る言葉に耳を傾けてくださるお方です。ですから、神は聖書を通して、今も私たちに語り続けておられます。また、キリストも神の御言葉である、と呼ばれています(黙示録19:13)。
そして、1節にあるとおり、「初めから」おられたお方です。この「初め」は天地創造よりも前の時間を指すとも言われています。ロゴスは神であられる方なので、永遠の初めから存在され、今も生きておられ、これから後も永遠に存在される方なのです。「初めにことばがあった」の「あった」と訳されている言葉は、原語の動詞時制では、過去も存在し、今も継続して存在されていることを明らかにしています。ロゴスなる方、神の御子は、私たちに語りかけられ、交わられる方であり、永遠に生きておられる神なのです。
2,ロゴスは、すべてのものを造られ、いのちを与える神(3〜5節)
ロゴスは万物の創造主
3節の「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」が明確に語っていますように、このロゴスは、万物の創造者であられるということです。聖書が私たちに伝えている神は、人間の願望やイマジネーションから生み出されたものではなく、反対に、人間も自然も、すべて創造主である神が創り出されたものであると明言しています。これは言葉で表現されるだけでは、あまり感動も驚きもないかもしれませんが、造られたほうの物をよく見ると、どんな言葉でも表現できないような驚きであり、不思議です。私は時々、絵画や美術品を鑑賞しますが、どのようにしてこんなふうに描くことができるのか、造形できるのかを考えると、人間の創造力のすごさに驚いてしまいますが、その画家や彫刻家を生み出したお方はもっと偉大です。あるいは、私は天体のことはよくわからないのですが、時々、夜空を見上げて、月や星々を眺めます。地球もたいへん大きなものですが、それを取り囲む宇宙は果てしなく広がる大きなものです。それよりも、創造主である神は大きくて偉大であるということです。
ロゴスは新しい創造の御業をされる
多くの方が気づいておられるように、このヨハネ1章冒頭部分は、創世記1章を意識した内容になっています。「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」(創世記1:1〜3)。ヨハネ1:1〜5と並べて読むと、「はじめに」、「創造する」、「光」、「闇」という言葉が共通しています。著者であるヨハネは、ロゴスが、父なる神とともに、創造の働きをされたということを示しましたが、実はそれだけではなく、ここで著者が記した強調点は、「新しい創造」についてでした。
ロゴスなる神、神の御子キリストは、ご自身を受け入れられるすべての人たちに、まことのいのちを与えるために、肉体となって地上に降りて来られました。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12〜13)。新しい創造の御業を行っておられるロゴスであるキリストに心からの信頼と喜びをもって、賛美を捧げましょう。