ヨハネの福音書 1:6ー13
礼拝メッセージ 2018.12.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,ロゴスは、希望の光、さばきの光です(4〜5節)
光は希望
前回見ましたように、ロゴスはギリシア語で、この1章では「ことば」と訳されています。そして、この「ことば」(ロゴス)が、「神」であり、「いのち」であると語られています。そしてさらに、そのロゴスは「光」であると述べられています。「ことば」も「いのち」も「光」も、すべてたいへんシンプルな単語ですが、キリストというお方について、大事な意味を含んでいます。おそらくこの第四福音書を記した人は(使徒ヨハネであると思いますが)、あえてシンプルな単語を使い、ボキャブラリーの数を最小限にして、文章構成も単純なものにして、イエス・キリストというお方の存在を表現しようとしたと考えられます。それは多くの種類の単語を使って、複雑に飾り立てた文章で、ロゴスはこれこれであると、知識の量を増加させることが目的ではなかったからでしょう。むしろこの記述は、シンプルな言葉から幾重にも読者のイメージをかきたてて黙想を促し、ロゴスという存在の奥深さと偉大さを考えさせ、深く味わうようにさせることを意図していると思います。
では、光とは何をイメージできるでしょうか。昔から、現代の人に至るまで、また多くの文化においての光のイメージは、たいてい希望や喜びではないでしょうか。それゆえ、神は天地創造の最初に、「光、あれ」と語って、光を最初に造られました(創世記1:3〜5)。イエス・キリストの公生涯の開始を告げる言葉として、マタイの福音書では、次のイザヤ書の言葉が引用されています。「闇の中に住んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(マタイ4:16)。「闇の中」「死の陰の地」という絶望的な状況下で生きていた人々に、キリストは希望の光として彼らの前に現れてくださったのです。幼子イエスは、シメオンの懐に抱かれて、「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」(ルカ2:32)と高らかな賛美を受けられました。光は希望です。イエス・キリストこそ、私たちのまことの希望そのものです。
光はさばき
しかし、光にはもう一つ大事な意味が込められています。それは、すべてのことを明るみに出すという、さばきのイメージです。光はすべてを照らすゆえに、罪や悪を白日のもとに暴き出します。ここで5節が言及している闇と光の対比が明らかになります。この闇とは、罪や悪そのもの、あるいは悪に支配されている世界、人々を指しています。3章19〜21節にこのことが説明されています。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る」。
聖書は、理想的な夢物語を語るのではなく、人間の生きている現実世界を直視し、暗闇の存在を否定しません。闇は存在します。ところが、「光は闇の中に輝いている」と言います。「輝いている」と、ここは現在形で表されています。輝いた時もあったとか、いつか輝くでしょうと希望的観測を言うのではなく、他でもない、この今という時に、輝いているし、輝き続けていると断言しているのです。なぜ、そう言えるのかという根拠は、ロゴスなるキリストがすでに来られているからです。この方は肉体をとって、私たちの間に住まわれたのです。
2,光を証しする使命に生きた人(6〜8節)
その光の存在を悟ったひとりの人間が、この時間の概念を超えたような記述が続く文脈の中、突如として現れます。それは、ヨハネという名の人です。このヨハネは、荒野で叫ぶ者の声であると、預言されていた人物、バプテスマのヨハネのことです。バプテスマのヨハネは、福音書すべてにおいて、キリストの宣教の先駆け的存在として記されています。神の救いのご計画において非常に大切な働き人です。ヨハネは、旧約聖書の時代からずっと続いて来た神から遣わされた預言者の掉尾を飾る人として、また、福音書最初の殉教者として、その名を聖なる歴史の中に刻んでいます。他の福音書とは違い、この第四福音書は、ヨハネという人物を、ロゴスなる光のお方を「証しする者」として記しました。ヨハネは、「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされました。…あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(3:28,30)と証言しました。ヨハネのことをそのように記した理由について、私はすべてのキリストにある者も、彼とまったく同じ使命を負っているからであると思っています。
私たちはキリストの後ろ姿を見つめて生きていくという意味では、キリストに倣う者ですが、キリストそのものではありません。私たちは光そのものではなく、ただその光を証しする者、まばゆいばかりの真の光をその身に受けて、照り返す存在として、生かされています。
3,光を拒絶する人と受け入れる人(9〜13節)
この9〜11節は、「最小のキリスト伝」とも言われています。すべての福音書を読み辿って行くと、キリストの地上でのご生涯は、確かにこのように表現することができるでしょう。10節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。日本中でクリスマスが祝われ、パーティーやプレゼントやサンタクロースはあっても、世は、その主人公であるこの方のことを知らないのです。そして受け入れないのです。
しかし同時に、このまことの光であるロゴス、キリストを受け入れる人は、いるのです。この2018年のクリスマスにも、世界中で大勢の人々がキリストをまことの光として受け入れ、信じることでしょう。12節の御言葉は忘れずに暗唱していただきたいと思います。この方を受け入れ、御名を信じた人たちは、神の子どもとなるのです。同じ著者が記したヨハネの手紙第一3章1〜2節を御覧ください。ここには、父なる神が御子イエス・キリストを十字架に捧げてくださったその大いなる愛が暗示されています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです」。