「ロゴスはイエス・キリスト」

ヨハネの福音書 1:14ー18

礼拝メッセージ 2018.12.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ロゴスは、栄光に輝くお方です

ロゴスの栄光

 1章4〜9節にありましたように、ロゴス(ことば)であるキリストは、光のような存在です。すべてのものを照らし出す義の光、希望の光です。でもそれは、小さな光ではありません。「義の太陽」(マラキ4:2)と言われるような大きな光です。さて、14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とありますが、この「住む」という語は、テント(幕屋)を張って宿営するという意味です。旧約時代、神の民がエジプトを脱出し、荒野を旅している時、宿営をし、幕屋を設けて、神の臨在を仰ぎ、礼拝しました。幕屋には主の栄光が満ちていたことが記されています(参照;出エジプト40:34)。
 どの方向へ進んで行けば良いかもわからず、荒野を彷徨っていた民が受けた神の栄光の輝きと臨在の感覚は、その偉大な御力と愛の導きを感じさせるものでしたし、神ご自身がどのようなお方であるのかをダイレクトに経験することだったと思います。ロゴスなるお方イエス・キリストを見、この方に触れることは、東方の博士たちが遠い旅のすえに幼子イエスへの礼拝へと導くものとなり、あるいは弟子ペテロが、主よ、この罪深い私からどうか離れてくださいとひれ伏して告白せざるを得ないように、人々の心を動かし、導くものなのです。

ロゴスは、住み、栄光を示し、恵みを与える

 14節に入ると「私たち」という表現が出て来ます。「私たちの間に住まわれた」、「私たちはこの方の栄光を見た」、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」と書いています。この「私たち」とは、この福音書記者の使徒ヨハネが、すべて主を信じる人たちを含んで語っているのでしょう。この「私たち」という言い方の中に、ヨハネや当時の信仰者たちの証しということがあり、その真実を証言するということがありました。しかしそれだけではなく、この「私たち」という信仰の交わりの中に、あなたもどうか入ってくださいというメッセージが込められているのではないかと思います。同じヨハネがその第一の手紙で「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:3)。


2,ロゴスは、人となられた

ロゴスは、限界性を持っている普通の人間になられた

 もしも13節まででこの箇所が終わり、14節が無かったとしたら、ロゴス(ことば)とは、偉大であるが何か観念的なもの、崇高な存在であるが私たち人間からは遠く離れたものとして、理解してしまうかもしれません。実際、仮現論という考え方で捉えようとする人々が過去にいました。しかしながら、ロゴスは現実のひとりの人間となられました。それはバーチャルでもフィクションでもありません。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と聖書は明言しているのです。ギリシア語原文ではこの最初の部分は、ホ(その)・ロゴス(ことばは)・サルクス(肉と)・エゲネト(成った)という短い言葉ですが、このシンプルな啓示の文章に、とてつもない真理が明らかにされていると思います。ちなみに、このエゲネト(成った)というギリシア語は、この1章1〜18節の中で、繰り返し出て来る言葉(原形はギノマイ)で、いろいろな意味を持っている語です(2,3,6,10,12,17節)。でも基本的な意味は、「少なくともこの形では存在しなかったものが、存在するようになる、生成する、生成した結果現に存在している」(織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』)ということです。「人」と訳されている語は、欄外中にあるように、直訳すると「肉」です。新共同訳などはそのまま「肉」と書いています。肉とは、第一に、肉体を持つ存在者になったことを意味します。ロゴスは、生きている生身の人間になられたのです。
 ロゴスは、イエス・キリストという歴史的に存在する現実の人となられました。皇帝アウグストゥスの時代に生まれ、ティベリウスの時代に活動し、ポンティオ・ピラトが総督の時に十字架に架かられました。イエスは超人ではなく、ふつうの人間として生きられました。人間として当たり前ですが、その体は、眠る必要があり(マルコ4:38)、喉が渇き(ヨハネ4:7)、空腹を味わい(マタイ4:2)、疲れることもあり(ヨハネ4:6)、苦しまれ(ヘブル5:8)、悲しんで涙を流されることもありました(ヨハネ11:35)。
 私たち日本の文化では、神という存在は、人間と近似的なものとしての理解がありますが、聖書では決してそうではありません。すべてのものをお造りになった、まことの神であるお方が、肉体を持つ者としての制限の中に生きられ、痛みを感じ、悲しみ、悩んで苦しまれる存在となったということは、旧約聖書の中に啓示されている全能の力ある神を思うと、全く考えられないことなのです。

ロゴスは、限界性を持っている普通の人間になられた

 そして肉となったということのもう一つ重要な意味は、人間的な限界や弱さを持たれたということだけではなく、新約聖書が「肉」という表現においてイメージさせる、悪と罪の中に来られたということです。主ご自身は確かに罪なきお方として来られましたが、この罪によって堕落した、悲惨な現実世界のただ中に、入って来てくださったということです。イエスのご生涯は、ベツレヘムの汚い家畜小屋に始まり、ゴルゴタにあった犯罪者の処刑台である十字架上で終わりました。家畜小屋から始まった生涯は、人々の無理解や誤解、あるいは敵対される中、憎まれ、呪われ、のけ者にされ、孤独を味わい、辱めを受け、愚弄され、いじめられ、傷めつけられました。ロゴスが人となったということは、このように不敬虔であり、神に反抗する、悪と罪にまみれた人間世界を、神がお見捨てにならなかったということを示しています。自らの罪により、その穴の中に沈み込んで溺れる愚かなこの世界に対して、神は決して背を向けることなく、むしろ父のふところにおられるひとり子の神を遣わして、救おうとされるのです。主は、災害や事故に見舞われた人々を救出するレスキュー隊のように、何があってもどんな困難な壁も乗り越えて、その場所へ突入される方なのです。地獄のような中にいて絶望しか存在しないような状況の中へ、ロゴスは人となって来られたのです。先ほど見たエゲネト(なった)という言葉の中に、すべての障壁を打ち破る激しい突撃の轟音が鳴り響くのを感じませんか。