「ユダヤ人の王としての断罪」

マルコの福音書 15:6ー15

礼拝メッセージ 2022.2.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,要求する群衆

二つの裁判

 本日の聖書箇所で、イエスが十字架につけられるという判決がくだされます。十字架刑が決まるまでに、二つの裁判が行われたことを福音書は記しています。一つは、最高法院というユダヤ人議会によるものでした。そしてもう一つの裁判がこの箇所の総督ピラトによる裁判でした。ユダヤ人による裁判とローマによる裁判、この二つによって、イエスは死罪と断定され、十字架に向かわれるのです。ユダヤ人による裁判は宗教的判断であり、ローマによるものは世俗的判断をそれぞれ象徴するものでした。ユダヤ人による裁判(14:53〜65)は、多くの者たちを証人に立てて偽証させるような、祭司長たちにより仕組まれた不正なものでした。それは祭司長たちなどイエスに敵対する者たちからすれば、彼を亡き者にするために取られた策略の実行であり、その意図を達成するための手段に過ぎませんでした。
 そして今見ているピラトによる裁判の流れも、裁判としてはとても酷くお粗末な内容です。通常イメージされるような裁判とは異なり、裁判官であるピラトが群衆の要求に応じて、判決を出すというたいへん奇妙なものでした。6節に「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた」と前もって解説されています。このことを受けて、ピラトと群衆とのやり取りが、このあと記述されています。

主人公は群衆

 したがって、この箇所で、ことば(セリフ)を発しているのはピラトと群衆だけです。裁かれる立場のイエス、そしてバラバのことばは何も記されていません。また、この不正な裁判を扇動した祭司長たちのことばも出てきません。そう見ると、この箇所の主要な登場人物はピラトと群衆であり、実にイエスの死刑判決を決定づけたのは、群衆であったことを明らかにするのです。不思議なことですが、この箇所で注目すべきは、群衆という、一人ひとり名前も顔も個性も分からない雑多な人間の集団なのです。
 第一に、群衆はピラトに要求することができましたし、ある種の大きな力を持っていたことをここは示しています。8節「群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた」とあるとおりです。「いつものようにしてもらう」というのは、6節で述べられたことでした。毎年の祭りごとに投獄されている人を一人釈放してもらうということです。ピラトは占領軍の代表者であることからすれば、植民地の群衆に対して、ここまでサービスをして、わざわざ彼らのご機嫌取りをする必要はないように思いますが、反乱や騒動が起きることはできるだけ避けたいという政治的判断であったでしょうし、周りから優柔不断に見られたとしても、自らの立場や出世、保身という利己的な動機から、あえてこのようなことを許可していたと考えられます。いずれにしても、群衆はこのように力を持っていましたが、彼ら一人ひとりがそのような影響力持っていることを正しく自覚していたとは思えません。その力に気づいていないところに、そこに彼らの問題があったのです。


2,扇動される群衆

 群衆は、11節によると祭司長たちによって扇動されたことが記されています。ピラトは「暴動で人殺しをした暴徒たち」(7節)の仲間であったバラバよりも、イエスのほうが安全な人物と見ており、イエスを釈放する方向に導こうとしました。しかも10節にあるように、「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていた」と記されています。でもピラトの思惑通りには行かず、祭司長たちは群衆をたきつけて、バラバの釈放を要求するように働きかけました。どんなことばを使って、祭司長たちが群衆を惑わせて、コントロールできたのかは書かれていませんが、人々にとって、よりメリットのあるほうを選択するようにアピールしたのではないでしょうか。群衆は惑わされてしまい、まんまと祭司長たちに騙され、間違った行動を取ったことは明らかです。しかし、それでは群衆は祭司長たちに踊らされただけで、彼らには何の責任もなかったのでしょうか。いえ、そうではないはずです。確かに人は集団になると、一旦方向づけが決まってしまえば、簡単には後戻りができず、大きなうねりの中で個人が埋没してしまい、その流れに反対しようにも少数者の声は完全にかき消されてしまうのです。この群衆の姿は集団が持っているそうした恐ろしさと罪を私たちに示しています。


3,バラバを選ぶ群衆

バラバ

 結果として、彼らが釈放するように願ったのは、バラバでした。バラバについては「暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた」人であったとしか、この福音書も記しておらず、詳細なことは何もわかりません。この場合の「暴動」とは、ローマに対抗する革命や反乱であったでしょうし、彼は反乱軍の首謀者であったと思われます。政治犯として投獄されていたのです。ルカの福音書によると、その暴動は「都」つまりエルサレムで起こったと書かれているので、群衆は皆、彼のことをよく知っていたでしょうし(マタイ27:16)、ある人たちは協力者や応援者であったのかもしれません。「バラバ」とはアラム語「バル(息子)」と「アバ(父)」から来ており、「父の子」という意味です。マタイの福音書のいくつかの写本では、彼の名前は「バラバ・イエス」となっています。それが正しいとすると、「父の子」と呼ばれている政治的反乱軍の指導者イエスと、「ユダヤ人の王」と呼ばれ「神の子」であるイエスと、どちらを選ぶのか、という問いかけが群衆に対してなされたことになります。「バラバ・イエス」か、「キリスト・イエス」か、ということです。そして、群衆はバラバを選びました。

十字架につけろと叫ぶ

 群衆はバラバを選んだだけではなく、イエスを「十字架につけろ」と叫び要求しました。この群衆はエルサレムに入城されるイエスに「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。』と迎えたのでした。それは「十字架につけろ」と叫んでいるこの裁判の数日前のことでした。「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、顔の見えない、匿名性を帯びた存在です。しかし、聖書が伝えていることは、「これが人間であり、あなたなのだ」ということです。ペテロはペンテコステの後に、エルサレムの群衆に向かって、こう告げたのです。「神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。」(使徒3:13〜15)。ペテロは、この聖なる正しい方を拒み、いのちの君を殺したのは「あなたがた」であると告発しました。本日の箇所とこのペテロのことばを読む時、群衆一人ひとりの顔の中に実は自分の顔もそこにあることを発見するのです。