マルコの福音書 5:21-43
礼拝メッセージ 2021.1.10 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.「だれがわたしの衣にさわったのですか」
本日の聖書箇所には、ゲラサ人の土地から再び舟で向こう岸へ渡られたイエス様が、2人の女性の病を癒された出来事が書かれています。1人目は、12年間も長血をわずらっていた女性です。
長血とは、子宮内の炎症やホルモン関係の異常によって、長期間の出血とひどい痛みを伴う女性特有の病気です。現在ではほとんど治療可能な疾患だそうですが、新約聖書の時代にはこのような病気が治癒に至ることはなかったようです。また当時、血は汚れを意味していたので、この女性は12年間も社会的に「汚れた者」として見做されてきました。彼女が具体的に医者からどんなひどい目にあわされてきたのかはわかりませんが、高額な医療費を払い続けても一向に病は改善していかない悲痛を彼女は味わっていました(26節)。
そんな「汚れた」彼女が、イエス様のもとに押し寄せている群衆の中に混ざって入っていき、イエス様の服に触れるには、とても勇気のいることだったはずです。イエス様のもとへ押し寄せていた人々は、彼女に場所を譲らなかったどころか、その存在にさえ目もくれなかったことが想像できます。人ごみに紛れている女性が長血をわずらっていると気がついたならば、人々は彼女の「汚れ」から身を避けていたことでしょう。そんな彼女が、群衆の中に入り込んでいくということは、簡単なことではありませんでした。
長血をわずらっていた女性がイエス様の服に触れたとき、彼女は病気が癒されたことを感じたのと同時に、イエス様ご自身もまた、ご自分の力が出ていったことにお気づきになりました。そして、「だれがわたしの衣にさわったのですか(30節)」と尋ねられました。状況を理解していない弟子たちは、この人混みでだれかを特定することはできないと言います(31節)。長血をわずらっていた女性だけが、イエス様の質問の意味を理解していたのです。
この女性の社会的立場を考えると、群衆に気づかれないうちにひっそりとそのまま帰らせるというのもひとつだったかもしれません。しかし、イエス様はあえて、この女性を人々の前に出させました。長血をわずらっていた女性は、イエス様の問いかけから逃れることはできないことを悟り、おそれおののきながら進み出てすべてを告白します。そんな彼女に対してイエス様が返された「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい(34節)」という言葉は、彼女のこれからの人生をどれだけ救うことになったでしょうか。イエス様は彼女の病気を癒しさえすれば良いとはお考えにならず、彼女と言葉を交わされたのです。
イエス様がこうして出会ってくださらなかったなら、この女性はその後、イエス様や周囲の人々に対してどこか怯えながら、ひっそりと生きていくことになっていたかもしれません。だれにも気に留められることのなかった自分に、イエス様だけが訪れてくださって、イエス様だけが自分の行動を肯定し、励まし、安心を与えてくれたという経験は、この女性の今後の人生において生きる糧となったはずです。そして、イエス様が彼女と出会われ、言葉を交わされたことによって、2人の間には人格的な信頼関係が結ばれたことを思わされます。この点においてもまた、イエス様がこの女性と言葉を交わしてくださらなかったら、彼女はイエスこそ神の子だとおそれることはあっても、イエス様と信頼関係を結ぶということにはなっていなかったでしょう。
2.「恐れないで、ただ信じていなさい」
イエス様が長血をわずらっている女性と言葉を交わしている間、ずっと気が気でない人がいました。ヤイロという人です。彼は会堂司の一人であったと書かれています。ヤイロはイエス様のもとへやって来て、自分の小さい娘が死にかけているので、救ってほしいと懇願しました。
ヤイロの願いを聞き入れられたイエス様は彼と一緒に歩き始めますが、その道中でイエス様が心を留められたのが、長血をわずらった女性だったのです。病気の癒しを目の当たりにしたヤイロは、このお方ならきっと娘を癒してくれるだろうとイエス様の力に確信したのではないでしょうか。しかし同時に、愛する娘が今まさに苦しんでいて、瀕死の状態にあることへの焦りもあったはずです。「もっと優先順位をつけて動いてほしい、急いでほしいと」とイエス様に迫らなかっただけ賢明であるように思います。しかし、そうしている間に知らされた娘の訃報は、ヤイロのイエス様への期待を失望に変えてしまいます。ところが、イエス様はヤイロに言われたのです。「恐れないで、ただ信じていなさい(36節)」。 その後、娘が亡くなっているにもかかわらず、イエス様はヤイロの家に向かわれます。そして、家に入り、娘の病気を癒されたのです。イエス様がヤイロの家に向かわれる道中、また彼の家に入っていくとき、どれだけの人がイエス様の言動をあざ笑ったでしょうか。しかしヤイロだけは、悲しみの底にいながらもイエス様の「恐れないで、ただ信じていなさい」という言葉に支えられて、「もう無理だ」と思いながらも、わずかな希望に期待を寄せていました。「もうだめだ、どうにもならない」という状況の中で、イエス様はヤイロに、「それでもイエスを信じる」というところを通らせたのです。
イエス様がヤイロの家族にお与えになったのは、病気の癒しだけではありませんでした。イエス様は病気の癒しを通して、ヤイロの家にイエス様への信頼をもたらされたのです。それは、イエス様がヤイロの娘を癒される際に両親と弟子たち以外を家に入らせなかったことからもうかがえます。イエス様の力は死に勝るものですが、それが人に良い影響を与えるものとは限りません。イエス様は何よりも人の心を大切にされるお方です。
イエス様が長血をわずらった女性とヤイロの娘を癒された2つの出来事は、イエスこそ神の子であることを明らかにしています。しかし同時に、これらの出来事にはイエス様の権威や力だけではなく、人の心を主への信頼へと導いてくださるイエス様の優しさがあふれています。イエス様は痛みのある人のもとへ訪れてくださり、出会ってくださるお方だからです。無条件で恵みをお与えくださり、私たちに出会ってくださった主に、私たちも無条件で信頼し、イエス様と人格的な信頼関係を築いていきたいものです。