「ベルゼブル論争」

マルコの福音書 3:20-30

礼拝メッセージ 2020.9.27 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.イエスを主として見ることができなかった身内の者たち

 イエス様の評判が広まり、群衆がみもとに押し寄せて来たために、イエス様はいちど、弟子たちとともに小舟で湖に退かれました(7節)。しかしイエス様が再び町に入られ、家に戻られると、群衆はまたみもとに押し寄せて来ました(20 節)。それはイエス様と弟子たちが食事をする暇もないほどであったと言います。
 病気の癒しを求めてイエス様のみもとにやって来る人々にとって、イエスというお方は何者かわからないながらも救世主のような存在だったでしょう。群衆はイエス様に救いを求めていました。しかしマルコの福音書 2 章に入ると、イエス様のことを良く思わないパリサイ人や律法学者たちが度々登場し、イエス様のなさることに疑問を呈するようになります。彼らはイエス様を律法の違反者あるいは異端者として見做していたようです。
 これまでイエス様に敵対する人物といえば彼らだけでしたが、20 節ではイエスを主として受け入れない新たな登場人物が描かれています。それは、イエスの「身内の者たち」でした。おそらく以前からイエス様を知っていた同郷の者たちが「イエスがおかしくなった」と思い、それを聞いた身内の者たちがイエス様を連れ戻しに来たのでしょう。幼少期からよく知っている少年が自分たちの理解の及ばない働きを始め、そのことでイスラエル中が騒ぎになっているとなれば、引き止めたくもなるはずです。身内であるイエスがこれ以上騒ぎを大きくしないうちに、連れ戻してとどめておきたかったのでしょう。
 「身内の者たち」は、イエスを「身内」以上の存在として認識することができませんでした。それはイエス様が主であることを知らないまま、長年ともに過ごしてきたからでしょうか。自分たちの身内であるイエスにこれ以上騒ぎを大きくしてほしくなかったからでしょうか。何にせよ、彼らはイエス様がなさっておられることを聞こうとはせずに、はじめから連れ戻すつもりでイエス様のもとへやって来ました。


2.聖霊の働きを悪霊呼ばわりした律法学者たち

 続けて、エルサレムから下ってきた律法学者たちの反応について描かれています(22 節)。イエス様がおられたガリラヤ地方と都エルサレムは、徒歩で移動するにはそれほど近い距離で䛿ありません。イエス様の評判は、エルサレムにいる律法学者たちがわざわざ地方に下ってくるほどのものでした。しかし彼らの反応は他の律法学者たちと同様で、イエス様を敵対視しました。彼らはイエス様のみわ
ざを見るなり、「彼はベルゼブルにつかれている」、あるいは、「悪霊どものかしらによって、悪霊を追い出している」と主張したのです(22 節)。ベルゼブルの意味するところは明確ではありませんが、当時、悪霊のかしらをベルゼブルと呼んでいたことが考えられます。彼らはイエス様が異端的であることを前提にして考えることしかできず、その前提に立って、イエス様がなさったことを理解し、説明しようとしました。律法学者たちは、評判になっているイエス様を自分の目で確かめて評価しようとしたのかもしれませんが、彼らは本当にイエスを見ようと願っていたとは言えないかもしれません。
 イエス様は律法学者たちの主張に対して、ただ論理的に反論するのではなく、たとえを用いて語られました(23-25 節)。たとえを用いた説明は人の心を深く納得させます。国の内部分裂、家庭の内部分裂は自滅を招くため、悪霊のかしらが下層の悪霊どもをわざわざ追い出す理由はありません。それではなぜイエス様が悪霊を追い出すことができたのかと言うと、それは 27 節にある通りで、「まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することができません。縛り上げれば、その家を略奪できます」。つまり、イエス様が悪霊を追い出すことができたのは、悪霊のかしらがイエス様に取り憑いているからではないことに加え、イエス様は悪霊に勝る力をもっておられるお方であるということが言えます。
 そして、イエス様は「まことにあなたがたに言います(28 節)」と言われ、大切なことを告げられました(28・29 節)。イエス様は聖霊の働きによって悪霊の追い出しをなさったり、病気を癒したりしておられましたが、人々がそれを聖霊だと見做さずに悪霊呼ばわりしたために、「それは決して赦されることではない」ことを語られました。ここでは、イエス様は必ずしも神の救いに関する教理的なことを述べておられると理解しないほうが良いと思われます。しかし、イエス様が聖霊への冒涜に対して「だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」と言われるほどに心底怒りを覚えておられ、これは誇張した表現であるとも限らないということは押さえておくべきです。イエス様はそれがおできになるお方だからです。そして、ここにはイエス様の聖霊に対する深い愛が表れています。


3.私たちの心を盲目にさせるものとは

 イエス様の身内の者たちや律法学者たちがイエス様を主と受け入れることができなかった理由には、彼らの持っている背景があり、それらを考察すると、私たち人間の側としてはイエスが主であると気がつくほうがよほど困難であると感じます。そしてイエスが主であると知ることができるのは、私たちの側の知恵ではなく神の側の選びなので、私たちにはどうしようもないような気もします。しかし、イエスが主であることや、主のなさることを受け入れられない理由として、そもそも私たちが神様を自ら拒否している可能性があります。神様を信じていると言いながらも、神様よりも人からどう思われるかということに重きを置いているかもしれません。
 そのような私たちの信仰は、私たちの心を盲目にさせます。イエス・キリストが主であると受け入れている人は、恵みによってすでに主によってその盲目さを取り去られていると言えますが、その信仰生活においては盲目であるかもしれません。
 私たちは主のなさることをすべて理解することはできませんが、日々のみことばと祈りによる主との交わりを通して、主を知り、主に近づくことがゆるされていることを覚えたいと思います。