「ピラトによる尋問」

マルコ福音書 15:1-5

礼拝メッセージ 2022.1.30 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


ピラトの尋問

 サンヘドリン(ユダヤ議会)の決定はイエスに死刑にすることでしたが(罪状は神への冒瀆?)、ローマ側の裁判に回されます。ユダヤ当局だけでは対応できなかったからでしょう。ピラトはローマ皇帝から派遣されたパレスチナ地方の総督で、実質的な政治的な権限を握っていました。そこでピラトが問題にして尋ねることは「イエスはユダヤ王を自認しているのか?」という点でした。これは大祭司がサンへドリンでイエスに対して「キリスト(メシア)なのか?」という質問とはニュアンスが違うように思えます。ローマが認めた以外の者が(誰であろうと)王になろうとすることはローマへの反逆に当たります。もし自らがユダヤ王であることを認めたならば、それは神への冒瀆ではなく、ローマ国家への政治的な反逆の罪となります。それに対して、「それはあなたが言っていることである」とイエスは返答します。この答えは非常に曖昧であり、肯定とも取れるし、否定とも理解できます。ただ福音書からの主張として明確なのは、イエスの宣教の意図の中にはローマへの政治的・武力的な反乱はなかったことです。それ以降、イエスは返答をせずに沈黙を守ります。
 裁判は暗礁に乗り上げますが、イエスを死刑にしていく決定的なことが起います。祭りのときに、人々の願いに従って囚人を釈放する習慣があったとされています(ただし、このような習慣については福音書だけに記されているだけで、ユダヤ教側もローマ当局も何ら記録を残していません)。人々はこの習慣を実行するようにピラトに要求します。しかし、ピラトはイエスの釈放を提案します。ここでピラトは、イエスはローマへの反逆を意図していないことを十分に確信していたことが示唆されています(ユダヤ側の妬みという記述)。そこで、進まない裁判の結論を民衆に対して求めたことになるのです。ところがユダヤ当局は陰謀をめぐらして、バラバの釈放を画策しています。民衆もその陰謀に手を貸すことになるのです。
 イエスは釈放されない、つまりイエスの有罪が決まったわけですが、今度はイエスの取り扱い(量刑)を再び民衆に尋ねます。そこで、民衆は十字架刑を要求します。人々はその意味、つまりこの刑はローマへの反逆者の処罰のためのものであることを知っていたはずです。つまりイエスを政治犯として殺すことを要求したのです。ピラトはその陰謀を見抜いてとりあえず法を守ろうとしますが、民衆の声の大きさ(世論)に負けて折れてしまいます。バラバを釈放し、イエスを鞭打ちにして十字架刑の実行へと手続きを進めるのです。


福音の痛み

 なぜ、ユダヤ当局やローマ帝国は不正な裁判をしてまでこのイエスを取り除きたかったのでしょうか?イエスには政治的な反逆の意図はなくとも、権力者にとってまたそれを支持する民衆にとっては危険な存在だったからです。人々から人気があるだけでは殺されはしません。事実、(多分、イエス以上に)バプテスマのヨハネは人気がありました、それゆえに殺されたわけではありませんでした。ましてや神の愛を説き、人々に優しい態度を取っていただけでは、死には至りません。神の意思を実現すること(神の支配の宣教)には癒しや説教が含まれますが、不正義に対する糾弾も含まれていました。苦しめられている人々の救いを実現にしようとするときに、不正義との対立は避けられませんでした。イエスの福音にはそのような痛みの部分、厳しい側面が存在します。神の意思である救いを求める人には福音は文字通り良い知らせですが、神の意思を損ねようとする人々には裁きとなります。福音は諸刃の剣です。これを忘れてはイエスの宣教も、イエスの死の意味も理解は出来ません。
 そのような神の正義・公正を貫こうとしたイエスが不正な裁判にかけられるのは非常な皮肉ですし、世の中で起きていることの象徴ともいえます。不正義によって無実の者が裁かれているのです。これはまさに2つの価値観の対決そのものです。神に選ばれた者を自称しながらも不正に手を染めるユダヤ教指導者やローマ指導者。一方は、神から見捨てられたと蔑まれながら神の意思を貫こうとするイエス(木に架けられることは、神からの呪いと理解されていたようです)。力を持つ者が力のない者を一方的に暴力で排除しようとし、力のない者は沈黙で抵抗します。


イエスの側に立つこと

 私たちはこのユダヤ教指導者やローマ当局のように力を持つ者ではありませんが、煽動された民衆としての役割を担うことはいとも簡単でしょう。神を信じていると思い込みながら不正義の側に味方して、イエスを殺す側に立つ(黙認する)ことはキリスト者でも可能です。私たちはイエスの側に立てるのでしょうか?簡単ではないが、少なくとも流されるままに生きることは多くの場合は、知らない間に神から離れる道を進むことになります。神が人に関わり続けること(愛と表現される)、そして神は苦しみを持っている人を先に救うこと(正義と表現される)、この2つを絶えず確認しなくてはなりません。