「パリサイ人とヘロデのパン種」

マルコの福音書 8:14ー21

礼拝メッセージ 2021.4.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,パリサイ人とヘロデのパン種とは?

パン種が意味すること

 彼らは忘れ物をしていました。食料のパンを十分に積み込まずに舟に乗ってしまったのです。確認すると、たった一つのパンがあるだけで、どうしようかと思っていました。そこへイエスがこう仰せられました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」と。そこで彼らは互いにパンを忘れたことについて、誰のせいなのかということで、言い合いになったのでしょう。弟子たちがイエスの言われた神の国やその使命を全然理解せず、この方がどなたであるのかについて何もわかっていなかったということをよく示している話です。ここでイエスが気をつけるように言われた「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」とは何を指しているのでしょうか。この福音書にはそれが何を意味するのかについて明確に書かれていません。かえってこの書の読者に対しても自分で考えてみてくださいと投げかけているのかもしれません。ルカの福音書12章1節には「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい」とあるので、これを偽善の意味に取っている人もいます。偽善とは、見せかけの信心深さを示し、実際には罪深い者であるのに、人前で善人の仮面をかぶっているということです。あるいは「ヘロデのパン種」とは、世俗主義や不信仰の象徴であると解釈する人たちもいます。この箇所の並行記事とされるマタイの福音書16章には「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(同6節)とあり、さらに「そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った」(同12節)と書いています。そこでここの「ヘロデ」とは「ヘロデ党」の人々やサドカイ人のことを指し、彼らの世俗主義的な考え方を指しているというのです。また、コリント人への手紙第一5章8節に「古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで」とあるので、このパン種という表現そのものが、悪や罪の象徴として理解されていたことは確かなようです。特に、パン種(イースト菌)はそれ自体たいへん小さな物ですが、発酵すると粉全体をふくらませます。わずかな偽善、微小な悪であってもそれらを取り除かなければ、いつのまにか全体に大きな悪影響を及ぼすことになることを表しています。

現代のパン種は何か?

 現在は目に見えないほど小さく、しかも世界中に深刻な影響を与え続けているウィルスと闘っていますから、このことは痛いほどにわかる比喩であると思います。今日の私たちが気をつけなければならないパン種とは何でしょうか。自分の信仰、また教会の歩みにおいて、どんなパン種が潜んでいるのか、注意深くしなくてはなりません。箴言では私たち一人ひとりにこう語ります。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4:23)。そして教会のためにパウロはこう命じています。「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。…私が去った後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなた方自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。…目を覚ましていなさい。」(使徒20:28〜31)。


2,繰り返し問いかけるイエスの御思いとは?

自分で考えて悟らせるイエス

 なぜ、これほどイエスは弟子たちに厳しく問いかけをなさっているのか、疑問に思われることでしょうし、読んでいてつらく感じられます。しかし弟子たちのどこが間違っていたのか、彼らがどのように悟れていなかったのか、それについて何も語られていません。おそらく二つの意図をもって、イエスはこのように弟子たちに迫られたと思います。一つは、弟子たちが自分でしっかりと学び、悟っていくようにするためです。もう一つは、彼らを襲う危機が差し迫っていたためです。ある注解書によると、こうした問いかけをされたのはイエスが真に良い教師であることを示しているとありました。なぜなら良い教師はただ正解を提示して終わるのではなく、生徒たち自身が自分の頭でよく考えるようにさせて導くものだからです。この箇所は「まだ悟らないのですか」という問いかけで終わっていますが、読者にも弟子たちと同じようにあなた自身でしっかりと考えて悟りなさいと語りかけているようです。そこで大切になって来ることは、イエスから学ぶ者である弟子や私たちが、絶えずイエスや神のことばに聞き続けていくことです。多忙な時代に生きている私たちはすぐに意味や結果を求めがちかもしれません。しかしイエスのことばは繰り返し聞いて学ぶ中で教えられ、力づけられ、悔い改めに導かれるものです。繰り返し学ぶことを妨げているのは、私たち自身がそのことはもう分かっている、悟っていると思い込んでしまい、聞く耳を持たないためです。みことばに向かう時には、頭を一度リセットして理解に努め、それに従うことです。

差し迫る危機が近づく中で語られるイエス

 二つ目のことですが、イエスは差し迫るこれからの危機を覚えて、弟子たちに語りかけたということです。18節の「目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか」は、エレミヤ書5章21節の引用です。「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない」。これは亡国の預言を取り次ぐエレミヤのことばです。エレミヤ書6章で神のさばきがエルサレムに近づきつつあったことが記されていますから、ユダそしてエルサレムの住民にとって危機的状況が迫っていたのです。真の悔い改めをもって神に立ち返ることが必要で、民には一刻の猶予もなかったのですが、彼らは神からの呼びかけに対して「目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない」状況でした。福音書に戻ると、この書全体の流れを見るとわかることは、ちょうど今日の箇所ぐらいが前半の折返し部分であると言えます。8章27節以降で、イエスは十字架への道に突き進んで行かれ、受難予告のことばが弟子たちにはっきり告げられます。「イエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められ」るのです(8:31)。十字架への道という弟子たちにとって大いなる試練であり、同時に神の国の力強い到来の起点となる恵みの出来事に、目を覚ましてそれを見、それを伝えなければなりませんでした。今からよく悟ってそのときに備えなさい。全世界への宣教がもうすぐ始まるのだ、とイエスは仰せになっているのです。