「パウロの人生相談③」

コリント人への手紙 第一 7:25ー40

礼拝メッセージ 2016.6.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「そのままの状態にとどまる」というアドバイスをどう受け取れば良いか

 25−38節では、未婚の人たちが結婚すべきかどうかについて、39−40節は、再婚しても良いかどうかについて述べられています。この箇所を初めて読まれた人は、使徒の答えに戸惑いを感じるかもしれません。基本的には、結婚しても良いが、どちらかと言えば、結婚しないで現状にとどまるほうが良いと語っています。もちろん、これらは「主の命令」ではなく、パウロの「意見」として述べられています。でも、結婚は素晴らしいものと学んできたが、どうもパウロの意見は違っているのか、あまりにも消極的な感じがする、と思うでしょう。
 現代の私たちには、当時のパウロやコリント教会が置かれていた状況について、詳しいことはほとんどわかりません。また、コリント教会からパウロのもとへ届けられた質問状がどんなものであったのかもわからないのです。ですから、ここで語られたパウロの回答の言葉について、よく考えて理解する必要があります。この中に含まれている、時代を越える不変的な真理を考究しなくてはならないのです。これは聖書を読む時の注意点の一つです。聖書は、自動書記されたような、宙に浮かんだ言葉ではありません。それぞれの時代を生きていた現実の人間が、現実に存在している人たちやグループに向かって語ったり、書いたりしたものです。ですから、必ず、歴史的、文化的な状況や、執筆背景などの文脈に注意しなくてはなりません。


2,終末(おわり)の時が近づいているという感覚で生きる

 そこで、この聖書箇所を注意深く読むと、強調されている一つのことに気づきます。それは、「現在の危急のときには」(26節)、「時は縮まっています」(29節)、「この世の有様は過ぎ去る」(31節)などの表現です。明らかに、パウロのこれらの結婚に関する質問への答えには、差し迫った「時」についての思いがあったのです。それは、聖書が語る「終末」、世の終わりについての意識でした。
 パウロがこの手紙を書いたのは、紀元55年頃であったようです。そして、この手紙を書いてから10年もしないうちに、パウロは殉教の死を遂げました。そしてこの手紙から15年後には、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。以後、主を信じる人たちへの迫害は広がっていきました。この書が記された時代、信仰を持って生きることに何らかの危険があったようです。パウロも、コリントの教会の人たちも、世の終わりを意識せざるを得ない状況があったのでしょう。もちろん、イエスが再び来られるという「再臨」は、まだ遥か先に起こることでした。この手紙から2千年近く経った今も、まだその出来事は起こっていないのですから。
 でも、それでパウロが間違っていたと考えるのは、早合点です。たとえいつの時代に歩んでいても、ここに記されているパウロの終末感覚や、勧めの言葉は、正しい生き方を示しています。それは、現在を危急のときとして受け止め、時は縮まり、世の有様は過ぎ去ることを知って、今を生きるということです。
かえって、この世の今の現実だけをすべてであるかのように歩む人生は、おそらく二つの誘惑に私たちを引きずり下ろすことでしょう。一つは、享楽的あるいは快楽的生き方です。もう一つは、絶望的悲観主義です。この世がすべてであるならば、この世でいかに幸せであるか、どんなに成功するか、どれだけ利益を得るか、どれだけ楽しむかが、その主要な目的になってしまいます。結婚についても、夫婦となって、幸せになることがその主要な目的となります。そのような結婚は、お互いが幸せでなくなれば、あるいは二人でいることが損得勘定で損ばかりと思えるようになったならば、それで終わってしまいます。また、もし世にあって、人生がうまく行っていないならば、絶望しかありません。幸せを感じることができないならば、お金がないならば、この世で成功していないならば、希望を失ってしまいます。
 しかし、よく聖書の言葉を聞いてください。「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。」(29−30節)。これは、今の状況、この世界、時代がすべてであるかのように歩んではならないことを言っています。むしろ、この世で完結しない生き方が、神の言葉を学んでいる人たちの生き方です。15章をよく読んでください。私たちは復活するのです!


3,どうしたら主に喜ばれるか、どうしたら主に奉仕できるか

 パウロが、結婚するかしないかについて、消極的に思われる言葉を語っている理由としていることは、32−35節の「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります」とあるように、世のこと、夫や妻のことで「心が分かれる」(34節)ことのないようにとの配慮です。
 現代の状況においては、これらの聖書の言葉は、結婚するかしないか、娘を結婚させるべきか否か、再婚をすべきかどうかと言うよりも、「主に喜ばれる」ために、どう歩むべきかを考える必要があるでしょう。35節の「むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため」に、むしろ結婚すべきかもしれないし、再婚すべき場合もあると、私は理解します。あるいは、こう言い換えることもできます。結婚することも、再婚することも、独身でいることも、また他のあらゆる人生の選択も、それを通して「主に喜ばれる」こと、「ひたすら主に奉仕できる」ことを目標にしているか、ということです。したがって、これらのパウロの人生相談は、結局は、何のために生きるのかを、質問者と読者すべてに、問うています。終末意識を持って歩むことは、私たちを無気力にしたり、努力の必要を減じるものではなく、かえって「ひたすら主に奉仕」する気持ちを内側から駆り立てるはずです。