「パウロの人生相談②」

コリント人への手紙 第一 7:17ー24

礼拝メッセージ 2016.6.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私たちは、神によって召され、神に臆している(私たちのアイデンティティー)

割礼か、無割礼か

 パウロは、結婚や離別、独身など、さまざまな人たちの状況からくる具体的な質問に、この7章で答えています。17-24節は、個別のケースに答える代わりに、原則的なことを語って、彼らの悩みや相談事に、神から発せられる光を当てています。18節から19節に、割礼を受けているかどうか、21節から23節に、奴隷の身分か、自由人の身分であるか、ということを、例として挙げて、人のさまざまな置かれている立場、状況についての違いを語っています。
 ユダヤ人や、旧約聖書を知る人たちの世界では、割礼を受けているか、いないかは、たいへん重要な意味を持ちました。なぜなら、割礼を受けている、すなわちユダヤ人として生まれているか、あるいは改宗した者として歩んでいるかが、神の民なっている「しるし」であったからです。また、ローマ・ギリシア世界においては、奴隷の身分にあるか、それとも自由人としての特権を得ているかどうかは、まさに大きな違いでした。今日で言うところの、社会的立場、貧富の差などに相当することでした。
 もちろん、これらのことは例として語られており、元々の質問の内容は、「結婚すべきかどうか」「未信者の半侶と結婚生活を継続すべきか」等、結婚という具体的なことに対するものでした。しかし、パウロは見方を変えて、もっと広く、高い所からの視点で、この極めて大切な原則について述べるのです。最も重要なことは、あなたの今いる立場、状況ではなく、自分自身が何者であるのかを認識しているかどうかであると。結婚しているかどうか、どこの国の人か、男か女か、学生か社会人か、裕福か貧しいか等、それは確かに現実としては大きいことかもしれませんが、パウロに言わせれば、最重要なことではありませんでした。聖書が語る最も重要なことは、自分がいったい何者であると、わかって生きるのかというアイデンティティー理解にあるのです。

主の尊い代価をもって買われた者

 23節『あなたがたは、代価をもって買われたのです』は、6章20節でほとんど同じ表現で出て来ました。『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです』。この意味は、イエス・キリストがあなたを愛して、あなたのためにご自身をいけにえとして、十字架にかかり、そのすべてをささげられたことを表しています。この言葉から2つのことを確認できます。1つは、あなたは神に愛されているということです。神はあなたのために最も大きな犠牲をささげられました。それはあなたを心から愛しているからです。もう1つは、あなたは、今や神の所有になったということです。人間に属するものでも、この世に属するものでもなく、実にあなたは神に属するものとされたのです。


2,私たちは、主に属する自由人として、キリストに属する奴隷として生きる(私たちのライフスタイル)

 自分が誰であり、誰に属するものであるのかを知ったならば、その上でどのように生きていくのか、が次のテーマです。子供の頃、よくこんなふうに,思ったものです。もっとたくさんお金のある裕福な家に生まれていたら、円満な家庭で育っていたなら、病気一つしない強いからだに生まれていたなら、私はもっとしあわせな人生を送れていたのに、と。それは自分の置かれているさまざまな状況、環境がすべてであるかのように思い込んで、不幸な境遇の犠牲者として、自分を憐れみ、自分の生きるべき道をごまかしていたのかもしれません。
 けれども、パウロはそれに対する答えを3回も繰り返して語っています。『ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。』(17節)、『おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。』(20節)、『兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい』。言い換えると、シスター渡辺和子さんが書いているように「置かれた所で咲きなさい」ということになるでしょう。確かに場合によっては、自分の置かれた状況から移動したり、変化することも必要なことがあります。でも、結局のところは、神によって「召されている」所で、どう生きるのか、ということが関われるのです。
 22節には「主に属する自由人」とあります。パウロの言おうとしていることは明らかです。もしもあなたが奴隷の身分として生まれたとしても、あなたはその立場にいながらにして、主に属する自由人として歩むことは可能です。逆に、あなたが自由人の立場にあるとしても、欲望に捕らわれ、罪に繋がれ、悪魔の言いなりの暗やみの人生を送っているのなら、あなたは自由ではなく、奴隷のように歩んでいると。むしろ、自由人である人は「キリストに属する奴隷」であることを覚えて、主に仕えていきなさい、とパウロは言っています。興味深いことに、この17から24節の中に「召されている」という表現が繰り返し使われています。これは「召命」と言う意味で、神が人をそれぞれの人生の歩みの中に呼び出し、導かれたことを示しています。「召し」と言うと、ローマ8:28の言葉を思い起こします。「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。神はすべてをご存知で、私たちを今ある状況の中に置かれました。試練の中におられる方にとっては本当に辛いことかもしれません。でも、この7章で、神はそれぞれの状況の中に「召された」と書いてあります。健康や病気のこと、家庭のこと、勉強や仕事のこと、すべて神はご存知です。そしてすべてのことを働かせて、「益」とされます。召された所で、私たちのすべきことは、それが退屈で苦痛を伴う状況であっても、神がそこに働いておられることを信じて、「神の御前」に歩むだけです。置かれた所で自分の花を咲かせるだけなのです。