「ツァラアトに冒された人を癒す」

マルコの福音書 1:40ー45

礼拝メッセージ 2020.8.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは、ツァラアトに冒された人のうちに、この世界の罪の現実を見て、憤りを覚えられた

ツァラアトに冒された人

 今日の聖書箇所を読むと、いつものイエスさまではないように感じられるところがあります。43節で「イエスは彼を厳しく戒めて」や、「立ち去らせた」等です。これまでの癒しの奇跡を行われた記事といささか異なるように見えるこの箇所から、今回はイエスの御心について考えてみたいと思います。
 39節を見ると、イエスはガリラヤ全土にわたって、様々な人々と出会い、福音宣教の御業を進められました。そこで主がご覧になられたのは、この世のいろいろな不幸の現実であったと思います。聖書全体から読み取れることは、この世界は、はるかな昔から、人間が創造主に背を向けたことから、不幸の根本が始まったということです。それが、過去も現在も、人間の様々な罪となって、病気、犯罪、不幸そのものを生み出していったのです。41節は「イエスは深くあわれみ」となっていますが、ある写本では「イエスは怒って」となっています。それがもし正しいとすれば、このツァラアトに冒された人に対する怒りではなく、そうした苦しみを背負っている現実の世界に対するものであったと思います。
 ツァラアトという病気は、他の病気とは扱いが違っていました。42節を読むと、「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった」と書かれています。「癒された」や「治った」とは書かれずに、「きよくなった」と表現されています。ツァラアトはヘブライ語で「打つ」ということばから作られた単語で、当時、一般的にこの病気は、神に打たれたことによって起こると考えられていました。実際にこの病がどういうものであったのか、過去は「らい病」と訳されてきましたが、正確なことはわからないというのが、現代の多くの学者の意見となっています。ツァラアトは旧約聖書時代からあり、人間にそれが現れる場合、重度の皮膚病のようなものであったと考えられています。感染する恐れがあり、祭司の職にある者が、それにかかっているかどうか、あるいは治っているのかを診断しました。これにかかっている人は、宗教的な祭儀はおろか、日常生活においても、人々から隔離されて生活をしなくてはなりませんでした。ですから、ここのツァラアトに冒された人も、隔離状態の中、決死の思いで、イエスに近づいたと思います。このようにツァラアトに冒されると、人は肉体的な苦しみを抱えるだけでなく、社会的にも除外されて孤立し、差別され、心もからだも苦しみの中に置かれることになりました。彼らは当時の社会において、最も苦しんでいた人たちでした。

人間の罪と不幸を取り去りたいと願われるイエス

 マタイの福音書の並行記事を見ると、この出来事はイエスの八つの奇跡の御業の中で、最初に行われたものとして描かれています。それゆえイエスがなさった奇跡の根底にある御思いというようなものが示された出来事と言えるかもしれません。主は、この絶望のどん底にある人に目を留められて、その罪の苦しみの現実を痛み悲しまれ、それをご自身が担われ、きよめられたのでした。そして社会にあった人々を孤立させてしまう、この差別という厚い壁を、イエスは御力を持って打ち破られたのです。40節「お心ひとつで」とツァラアトに冒された人はイエスに願いましたが、このことばは「あなたが願われるのなら」「あなたが望むのなら」という意味です。それに対してイエスは「わたしの心だ。きよくなれ」と言われましたが、それは「わたしはあなたがきよくなることを願っている、欲している」ということです。私たちの苦しみ、悲しみ、苦悩、罪、これらの現実をイエスは見ておられます。そして私たちとともに、怒り、悲しみ、苦しんでおられます。そしてそれを「わたしが背負ってあげよう」と言われているのです(参照;マタイ8:17)。 この時代、職業や身分は親から子へと代々引き継がれていたことでしょう。したがって生まれ持った貧困と低い身分や立場から抜け出したくても、容易には逃れられませんでした。パリサイ派の者たちや周りの人々からも、罪人と見られていた彼らは、罪深い生活しか送ることができないことを自覚し、神の祝福からも恵みからも引き離された、呪われた存在であるかのように思わせられていたのでしょう。その点から考えると、17節の「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と言われたイエスのお言葉は、このような当時の時代背景からすると、とてつもなく大胆な宣言であったことがわかります。彼らがずっと持ち続けて来た恐ろしい自己観念の呪縛と社会の差別構造をイエスは完全に打ち砕いて、彼らを神の御前に生きることのできる真の人間として立つことができるように解放されたのです。


2,イエスは、奇跡を求め喜ぶだけで、聞いて従わない人の姿を見て、悲しまれた

沈黙を命じるイエス

 44節で「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と、イエスがこの人にツァラアトが癒され、きよめられたことを秘めておくように、沈黙を守るように命じられたのは、不思議に思われることでしょう。ことばの続きを読むと、「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたへのきよめのささげ物をしなさい」とイエスは命じておられます。このことについては、レビ記14章にその規定が書かれています。先程確認しましたように、ツァラアトになった場合も、治った場合も、祭司によって診断される必要がありました。そして神殿で定められたささげ物をすることで、彼が当時の宗教社会の中で完全にきよめられたことを公にしてもらい、社会に受容され、復帰してこれから先、しっかりと歩めるように、主は指導されたのでした。

注意深く主を証しせよ

 ところが、45節を見ると、彼はそれを正しく受け取らず、癒されて、きよめられたことの喜びだけが先行して、行動してしまったかのように見えます。結果として、彼の行動がイエスの宣教の妨げになってしまったのです。ギリシア語校訂本ネストレ28版を見ると、今日の箇所は40節から始まるのではなく、39節から45節までが一つの段落とされています。39節と合わせて、最後の45節を読むと、このツァラアトがきよめられた人が「出て行ってふれ回り」、「この出来事を言い広め」たことで、イエスが表立って町に出入りできず、宣教の働きにかなりな支障が起こってしまったことがわかります。
 彼のしたことによって生じたことの一つは、当時の神殿を中心とする祭司集団という宗教的システムにおいて、イエスが目障りな存在として意識されていくことになったことです。また、もう一つのことは、この奇跡の出来事だけが伝わることになり、ミラクルな病気治療者として祭り上げられることになってしまいました。E.シュバイツァーという学者は、「奇跡と告白は、十字架に至るイエスの道を知らなければ、必ず誤解されるであろう。イエスの道は同じ道を歩んで、御後に従うことを要求し、かつこれを可能ならしめるのである」(「NTD新約聖書注解」)と言っています。
 キリスト者の証しも、救いの喜びをただ表現するだけでは誤解を与えることがあります。喜びの表現は、悲しみのただ中にある人には慰めにならず、かえって苦痛を与え、信仰を持つことへの妨げとなることもあります。主が働かれやすいように、思慮深く、主の御心を求めつつ、宣教の業にあずかりましょう。