「ダビデの子についての問い」

マルコの福音書 12:35ー37

礼拝メッセージ 2021.10.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストとはどのようなお方なのか

 たいへん短い聖書箇所ですが一読しただけでは、なかなかその意味を捉えにくいところであると思います。一体、何をイエスは語られたのでしょうか。このところでイエスは、「キリストとはどのような方ですか」という問いを投げかけて、その答えを自らお示しになりました。現代の私たちからすると「キリストとはどのような方ですか」とイエスが仰るのを聞けば、「それはあなたではないですか」と答えてしまうかもしれません。しかし、イエスがエルサレムの神殿内で群衆にこのことについて話されていたとき、イエスこそがキリストであるということを悟っている人はほとんどいなかったのです。もちろん弟子たちはある程度そのように考えていたでしょう。しかし、その理解はまだ十分ではなかったのです。この聖書箇所では、イエスご自身がキリストはどのような方であるのかを語り、その内容を通して、当時の人々が理解していなかった本当のキリスト像を明らかにされることにより、キリストであるご自分について、本当はどのようなお方であるのかをより深く教えておられるのです。


2,キリストをなぜ「ダビデの子」と呼ぶのか

 イエスの投げかけられた質問は「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか」(35節)というものでした。これはどういう意味で言われたのでしょうか。そのことを確認する前に「ダビデの子」という表現が意味することをまず見ておきたいと思います。当時のユダヤの人々は、キリストとは誰ですかと問われれば、即座に「それはダビデの子です」と答えたことでしょう。ダビデとは、イエスの時代から約1000年も前の人物で、イスラエル統一王国の偉大な王様の名前です。このダビデは神から特別な約束を与えられていた人でした。その約束とはサムエル記第二7章12〜13節で「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」というものでした。この約束を待ち望んでいた人々は、キリストすなわちメシアとは、ダビデの子孫として生まれる人々の中から、かつてのダビデのように王としてユダヤの国を復興し、ローマ帝国の支配から救出し、解放してくれる力強い君主のイメージを思い描いていたのでした。イエスご自身もこれまで盲人バルティマイから「ダビデの子のイエス様」(10:47)と呼ばれ、エルサレム入城の際にも人々が「祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に」(11:10)という歓呼に迎えられたのでした。したがって、イエスご自身がご自分のことをダビデの子(あるいは子孫)であることを否定して、「どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」(12:37)と言われたのではありません。彼らが考えていたキリスト(メシア)のイメージが間違っていることを指摘するために、このように詩篇110篇を引用して説明をされたのです。


3,ダビデの主であるキリスト

 36節を見ましょう。まず、「主は、わたしの主に言われた」というところです。ここは日本語でもギリシア語でも二つの「主」(キュリオス)という単語は変わらないのですが、元の詩篇110篇のヘブライ語では異なっています。最初の「主」は「ヤハウェ」という語です。そして次の「私の主」は、私の主人という意味の「アドニー」です。ですから、最初の「主」はヤハウェ、父なる神のことで、後のほうの「主」はキリストを指しています。ことばを追加して表現すると「(父なる神である)主は、私の主(キリスト)に言われた」となります。ここの「私」とはダビデです。同じように続けると、「(キリストである)あなたは、(父なる神である)わたしの右の座に着いていなさい。(父なる神である)わたしが(キリストである)あなたの敵をあなたの足台とするまで」となります。ここで第一に明らかにされていることは、イエスが示されるキリストとは、単なるダビデの子(子孫)ではないし、その再来でもないということなのです。だから、ここでキリストは「ダビデの子」というよりも、「ダビデの主」であるとイエスは言われました。その方はユダヤ民族のためにローマ帝国と戦うこの世の力ある王ではなく、ユダヤもローマ帝国も諸国も神の御心によるご支配で治めるばかりか、全世界のすべての人々を救ってくださるメシアであるということなのです。第二に明らかにされていることは、キリストはやがて神の右の座にお着きになる真の権威を持った王であるということです。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」(36節)ということばの意味をペテロがペンテコステの出来事が起こったときに説明しています。そこでペテロはこの詩篇110篇の預言をキリストの復活と昇天を示すものとして語っています(使徒2:29〜36)。あるいはパウロもこの預言に基づいてキリストを語ります。「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです」(Ⅰコリント15:24〜25)。ここには、キリストの復活、昇天、再臨を通して、神の国の究極の完成に至ることまでが示されています。マルコの福音書の中では、「おまえは、…キリストなのか」という大祭司の尋問の中で、ダニエル書7章からイエスはご自分がキリストであり、キリストとはこのような方であると答えておられます。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(14:62)。イエスはこの預言のことばから、ご自分が神の右の座に着いて、あらゆる権威と力を持ってこの世界を支配されることを大胆に示されています。このように見ていくと、この福音書がここまで記してきたイエスのことばと行動の意味が一貫性をもって語りかけていることに気づきます。それは、イエスこそがキリストであり、この方があらゆる権威をもった王であるということです。最初に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と語り出され、イエスは「権威ある者として教えられ」(1:22)、「地上で罪を赦す権威を持っておられ」ることを示し(2:10)、その権威で汚れた霊や悪霊どもを追い出され、弟子たちに権威を授けられ(3:15)、そしてその同じキリストの権威でエルサレムに王として入城され、神殿をきよめられた(11章)のでした。当時の律法学者や多くの人々が抱いていたキリストのイメージはたいへん狭く、小さいものでした。私たちのキリストに対するイメージはどうでしょうか。