ダニエル書 9:1ー19
礼拝メッセージ 2024.12.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,ダニエルは主のことばを調べた(1〜2節)
ダニエルは祈りの人
ダニエル書9章は預言解釈の「鍵」そして「要」であると言われています。次回、その預言内容について見ていきたいと思います。しかし、この聖書箇所はそれと同時に「偉大な祈りの章」であると私は思います。神の御前で民族的悔い改めの祈りが記述されています。神を信じて歩む一人ひとりにとって、ダニエルの祈りの内容とその精神は時代を超えて語りかけ、信仰者の良き模範を示しています。4節からダニエルの祈りのことばは始まっています。祈りに先立つことが1節から2節に記されています。それは「私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって」(2節)というところです。ダニエルは預言者でしたが、ここでエレミヤによって預言された神のことば、その文書を読んで「悟った」と書いています。ダニエルの時代には、私たちが手にすることのできるようなかたちで聖書を所有することも読むこともできなかったでしょう。けれども、私たちの時代に置き換えてみると、それは紛れもなく聖書を指していると言って良いでしょう。
主のことばの約束を受け取る
まず、神のみことばを受け、それから私たち人間の祈りのことばがそれに対する応答して発せられるのです。ダニエルは、エレミヤによるどんなみことばに応答したのでしょうか。それは2節後半「エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であること」でした。これは、エレミヤ書25章11〜12節、29章10〜11節にあります。29章を見ましょう。「まことに、主はこう言われる。バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。
みことばが示していることは、七十年間エルサレムは荒廃するが、七十年の歳月が満ちると、主はいつくしみの約束を果たして民を帰還させ、エルサレムを復興されるという平安を与える計画です。章の冒頭で年代が示唆されています。「…ダレイオスが、カルデア人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年」と書いています。それは紀元前538年と推定されています。おそらくダニエルがこのエレミヤの七十年の預言を悟ったとき、彼はすでに八十歳を超える年齢でした。しかし、それから数年でこの七十年が満ちることになる、という約束を受けたのです。もちろん、ダニエル自身はエルサレムに帰還できませんでしたが、子孫や次世代の人々が祖国へ戻り、エルサレムが再建されるとのみことばの保証は、彼を慰めるものであり、そうして彼は祈りをささげたのでした。
2,ダニエルは主に祈りをささげた(3〜19節)
賛美と悔い改め(3〜14節)
ダニエルがささげている祈りの内容は、最初に賛美(4節)、そして続く多くのことばをもって罪の告白によって悔い改めの祈りがなされています(5〜14節)。そして次に赦しと救いを求める嘆願、あるいはとりなしのことば(15〜19節)となっています。最初の「大いなる恐るべき神」という呼びかけは、ダニエルのこれまでの人生経験、彼が見聞きし体験してきたことに基づいています。ダニエルは正しく神を恐れていました。そして、神というお方が「あなたの命令を守る者には契約を守る方」と呼びかけていることもこのあとの祈りに繋がっています。
5節には「罪の一覧表」のように、いろいろな角度から「罪」が表現され、それを告白しています。「私たちは罪ある者で不義をなし、悪を行って逆らい、あなたの命令と定めから外れました」。最初の「罪」と訳されている語はヘブライ語で「ハータ―」です。次の「不義」は「アーウォン」、そして「悪を行って」が「ラーシャ―」であり、「逆らい」が「マーラド」ということばです。神学者M.エリクソンが「罪」についてヘブライ語を分類し説明しています(『キリスト教神学 第3巻』いのちのことば社)。それによると、「ハータ―」とは「意図的に的を外す」ということ、「アーウォン」は「曲がる、ねじ曲がる」という意味で、「ラーシャ―」は罪の結果を強調する語で、他者に動揺と不快をもたらすことが含意され、「マーラド」は反逆することを意味しているそうです。
ダニエルはこれらのことばを使って、神の民であるユダヤ・イスラエルが彼から見て過去であるこれまでの歴史において、いかにさまざまな罪と悪を行い、神を悲しませてきたかを言い表しているのです。。5節以降から気づくことはおもに二つあります。一つは、罪というものが神の御前に、いかに大きなことであるのかということです。罪は私たちが意識している以上にたいへん大きなもので、社会的集団的な罪など、私たちが気づかないうちに霊的な足かせをはめ、神から遠ざけようとするものです。
二つ目にダニエルの祈りからわかることは、彼は自分を罪を負う民から距離を置くことなく、むしろその告白の中で彼は「私たち」と言って彼らと自分を同一化して祈っていることです。先祖たちの失敗や罪の結果をなぜ自分が背負わなくてはならないのだと不平不満でいっぱいになってもおかしくないのに、彼はそうではなかったのです。ダニエルは同胞の立場に立ち、父祖たちの歴史を背負って神の御前に出て言うのです。「私たちは…、私たちは…、私たちは…」と。
赦しと救いを求める願い
15節から19節までの祈りの内容について、二つのことに目を留めましょう。一つは、最初に見たように、「七十年の満ちるころ」という主のみことばがすでに与えられているのに、なお祈る必要があるのか、ということです。答えはもちろん、祈る必要があるということです。これはカルヴァンも言っていますが、神の約束を知ることは、神の行動から私たちを遠ざけるものではなく、むしろ祈りを促すものであるということです。 次に、赦しと救いを願う根拠ということです。ダニエルは、自分が真剣に祈っているから、悔い改めているから、これからこうしますからどうか私の祈りを聞いてください、と人間に根拠を置くことはしていません。では、何をもとに祈るのかというと、それはただ神の真実とあわれみにすがることです。18節後半に「私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」。ちなみに、この「あわれみ」は複数形で、直訳すると「大いなる諸々のあわれみ」です。神のあわれみは溢れています。また、神がご自分の契約に忠実で、恵み深い方であることも、とりなしの祈りの土台となっています。