「シリア・フェニキアの女の信仰」

マルコの福音書 7:24-30

礼拝メッセージ 2021.3.7 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


女性との出会い

 イエスはツロという異国に地でかけました。休暇のための訪問だったようですが、ここに一人の女性がイエスのもとに来ました。彼女の娘は穢れた霊に憑かれており、その娘を救って欲しいという懇願です。この女性はギリシヤ人で、シリア・フェニキアの生まれでした。ガリラヤでユダヤ教の文化・社会に生活していたイエスから見れば、外国の女性です。それはまた当時は、ユダヤ教以外の宗教(神々)を信じていたことを意味し、彼女が特にユダヤ教に改宗しているコメントもないので、ギリシヤの神々か別の神々を信じていたようです。
 ここでのイエスの反応は、私たち読者の期待とは反すると言って良いでしょう。病の癒しを求めている者を突き放す態度はめずらしい。ここでイエスの語りが意味するところは、休息を邪魔しないで欲しい、という理解があります。あるいは、マタイ福音書に従い、イスラエルの人々に福音がまず語られ、異国人はその後に語られるべきで、その異国人に福音を語って業をなす時は来ていない、と理解する立場もあります。いずれの解釈にせよ、この女性がイエスに救いの手を伸べるタイミングが悪いことになります。
 この外国人女性は、イエスの冷淡とも思える言葉を逆手にとって自ら(あるいは娘の)の救いを獲得するように懸命に語りかけます。残り物でよいから、今は娘の救いの時ではないかもしれないが、救いのかけらでもよこして欲しいと願います。イエスはこの女性の機知を認めて、自らの言葉に反してその救いの業(悪霊からの解放)を行います。


学ぶ者としてのイエス

 この物語でいつも、また最も問題となるのは、なぜイエスがこの外国人女性の願いを冷淡な態度で断ったのか?です。この女性の事情や状況、あるいは願いの内容をいっさい問うこともせずに、逆にイエスの方から関わりを断つ言葉を投げかけています。多くの人はこの女性のイエスに対する信頼を試す意図がイエスにはあったと考えるでしょう。外国の女性であるし、ユダヤ教を理解しているわけでもなさそうです。そのような女性がイエスに救いを求めてきたが、どれだけ真剣に救いを求めているのか、イエスに求める言葉に嘘はないか、それをイエスは確かめたかった、そんな理解です。別の解釈としては、イエスは本当に休みたくて女性を文字通り追い払おうとした、あるいは外国人女性ということで自分の宣教の範囲外と考えていたが、イエスはこの女性の必死な思いの言葉から、国や民族という枠を超え、あるいは性差(男女)といった壁を越えて宣教する意味を学び取った、そんな読み方をする人たちもいます。イエスがこの女性との交わりの仲で、彼女に脱帽し、彼女を尊敬する態度は示しています。この時点でイエスは癒す人ではなく、学ぶ人になっていることは言えるでしょう。


イエスの宣教

 イエスの福音の言葉やイエスの救いの業は、国や性差、あるいは社会的身分(出自)を超えていきます。この外国人女性に関して言えば、宗教の枠組みをさえも超えてしまっています。イエスはこの女性にユダヤ教に改宗することは求めていません。そうではなく、ここでの救いの成就はイエスとこの女性との、冷淡さと機知に富んだ人格的な出会いにありました。この出会いは、すでに私たちの国も男女差も、身分も文化も(宗教も)超えています。真の救いには、そのようなことが起こるのです。
 では何でもありでしょうか? 逆にイエスは、そのような社会的・宗教的な枠組みに人々を押し込めて、自分たちだけが正しいと自認する人々への徹底的な抗議を行い続けます。その行き着く先が十字架での処刑でした。人々の間にある見えない壁を壊すことは簡単ではありません。壊すのは難しいです。しかし、壁を壊し違った人々が尊敬しあって交わりを持つようになったときから、別の壁が人々を取り巻き始めます。これまでその壁は男女、国籍、言語などなどと呼ばれてきたものが、今度は信仰だとか救いという名の壁になってしまいます。私たちは、そこに安住し、時にはその人を隔てた壁がもたらす苦しみの被害者になり、時には(善意から来ることが多いので、知らぬ間に)人を苦しめる加害者にもなります。私たちの教会生活、日々の家庭や職場での生活、そこでは新しい人々との関係が絶えずあり、新しい出来事も起きます。そのときに、聖書に登場するパリサイ派や律法学者のように神の名で自らの思いや習慣を守るだけに留まるのか、あるいはイエスが新しい(しかも異質の)人の出会いから学んだように、私たちも人との出会いから学ぶのか、そんな選択に迫られます。新しい出会いから学び謙虚になることの中で、私たちは互いの必要を満たすという神がもたらす救いを経験し、神が命じる事柄を実行することが出来ます。