「サラとハガルのたとえ」

ガラテヤ人への手紙 4:21-5:1

礼拝メッセージ 2022.8.28 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


アブラハムの子どもたち

 アブラハムはイスラエル人の父祖であり,尊敬されていた人物でした。アブラハムの正妻であるサラには子どもがいませんでした。この時代に子ども(特に男の子)が生めないことは,女性にとっては自分の存在価値を失うことでした。そこでサラは自分の奴隷であるハガルをアブラハムに与えて,男の子を産ませます(創世記にはその名がイシュマエルと記されています)。しかしこの後にサラに男のイサクが生まれました。アブラハムの正式な後継者はイサクとなり,ハガルとイシュマエル親子は追い出されます。パウロは,律法ではなく信頼によって人々が神に受け入れられることを証明するために子の2人の息子たちの物語を用います。


奴隷の子と自由の子

 はっきりと,ハガルの子イシュマエルとサラの子イサクは対立して捉えられています。イシュマエルは,奴隷の子として生まれたのであり,彼自身も奴隷です。ですから,後継者・相続人ではありません。アブラハムの後継者ではないことは,神の相続人でないことを意味するものとして理解されています。地上のエルサレムは,パウロが生きていた時代の町としてのエルサレムを指します。律法を重視してパウロに反対したキリスト者が多くいた町であり,パウロの敵対者をガリラヤに派遣した町でもあります。それに対して,イサクはアブラハムの正式な後継者であり,神の相続人となります。サラという自由人の女性から生まれたがゆえに奴隷状態を経験しなくて済みました。26節の「天上(上)のエルサレム」とは比喩的な意味として用いられていて,真の信仰者たちのいる教会が存在する理想状態を意味しています。


子どもたちの対立

 肉の者が霊の者を迫害したように,現在においては律法を重視する者が信を重視する者を迫害していると言われています(これはイシュマエルがイサクをいじめた伝承に基づいているらしいのです)。だから,イシュマエルが追放されたように,律法を重視してキリスト信仰を歪めてしまう者は追放されるべきであると訴えます。両者がともに歩むことはできないとパウロは強く主張するのです。


現代との視点の違い

 現在では,子どもが正式な配偶者によって生まれた子であっても,婚外子であっても,子どもに対して差をもうけるべきではないでしょう。少なくとも,イエスの福音を知っている者が,子どもに対して差別的な扱いはすべきではありません。また,聖書解釈も非常に比喩的で,創世記の2人の息子の記述は本来,律法とキリスト信仰の対比として書かれたとは言えません。最後には,対立する両者には和解点はなく,間違った意見の人々を一方的に追い出すべきであると主張することも,イエスの福音からすれば疑問を感じるかも知れません。


律法の束縛からの解放

 以上のような様々な疑問はありますが,ここではパウロが指摘する自由の意味を考えていきます。自由の意味を,パウロはまず律法の束縛からの自由として描き出します。律法の意味としてパウロはユダヤ教の規則や習慣として述べています。一般的に、規則や習慣によって私たちは束縛されてしまう可能性を持っています。その理由として,規則は必要だからです。別の理由として,規則や習慣があると(束縛と引き換えに)安心できる面があります。規則や習慣の意味を知らなくとも,それを言葉どおり守っていれば良いのです。守ることが出来なければ,(そこに苦しみや痛みはともなうとはいえ)神が最終的には赦してくださるとの思いもあるでしょう。ですが,それは非常に無責任な生き方に繋がります。反対に,規則や習慣から自由であることは,生活の場面・場面で生き方を選ばなければならなくなります。これは責任を問われる生き方であるし,不安にもなります。
 律法からの束縛から解放されて自由に生きるには、変えてはいけない事柄(パウロは5章で愛と表現し,6章ではキリストの律法と表現しています)・変えても良い事柄・変えなくてはならない事柄,これらを整理しておく必要がります。律法主義とは,本来は変えても良い事柄・変えなくてはならに事柄を,伝統や習慣として変えてはならいものとして,実生活にも当てはまらないものを捻じ曲げて,人々を苦しめる結果になる生き方です。そのような束縛から解放されて,変えてはいけない事柄を大切にする中で,互いに神の恵みや人の愛(関わり)を経験できる生き方に変えられたいものです。