「キリスト者の自由」

ガラテヤ人への手紙 5:2-15

礼拝メッセージ 2022.9.4 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


信と愛

 律法を守ることで神の前で自らの信仰の正しさを認められようとする者は,神との関係を立て上げるキリストの救済とは関係のないものです。なぜならば,(律法遵守によってではなく、信によってのみ義(神との関係に入れられる)の希望を待ち望むからです。キリスト・イエスにおいては,ユダヤ人であることも異邦人であることも関係ないと言われています。キリストを告白する者には,ユダヤ人と異邦人の間の壁は取り除かれています。重要なのは,愛を通して働く信です。


十字架の意味

 十字架の躓きが述べられています。ユダヤ人にとって,木に架けられる者は神から呪われた者でした。そのような者が神から選ばれたメシア(キリスト)であるはずがないのです。しかし,神と人とに仕え,結局は見捨てられた十字架のイエスの姿に,キリスト者の生き方の本質をパウロは見出しています。十字架の呪い,そのことによって律法の呪いから人々を解放した姿にこそ,キリスト者の生き方があります。栄光ではなく,神と人とに仕えた悲惨さにこそキリスト者の意味があります。律法を守ることで神の前に自らの信仰の正しさを認められることに成功しても,人としての栄光が残るばかりです。


自由への招き

 ガラテヤ教会の人々は自由へと招かれているとパウロは宣言します。自由は放縦ではないとパウロは理解しています。好き勝手が自由ではなく,互いに仕え合うために自由を用いるように勧めます。ここにパウロの考える律法からの自由を真の意味があります。ここでは律法を一言で,隣人との関わりへとまとめられています。福音書では,神への愛と隣人愛が律法のまとめとして記されています(実は,このまとめ方はイエスのオリジナルではなく、ユダヤ教一般の考え方です)が,この聖書箇所では人間同士の関係だけです。キリストが自由を人に与えたこと,自由にされた人々が他者との関係をどのように保つべきか,そこをパウロは強調したいようです。隣人愛を実現していれば,すべての律法は全うされています。逆に言えば,愛(他者を生かそうとする生き方,行動)がなければ,文字通りに律法を守っていても,律法を実現しているとは言えなくなります。互いの争い合いは私たち自身を滅ぼしていくことになります。それは,他者への愛を失った罰ではなく,当然の結果としてそのようになるだけです。


自由の目的

 キリストが私たちに与えた自由は,互いに仕え合うための用いられるべきであり,そこにキリストの与える自由の目的があります。パウロに言わせれば,このような自由はキリストの時代から始まったわけではなく,旧約において神の意思として示されていたことになります。律法が隣人愛にまとめることが出来るとするならば,神は律法に人との関わり,そのあるべき姿を描いたことになるのです。しかし,律法を文字通り守ることで自分たちが神に認められようとする生き方は,人との関わりという最も大切な事柄を無視したことになり,律法の本来の目的を無効にし,神の意思を軽視したことになります。キリストが私たちを律法の呪いから解放し自由を与えたのは,神の本来の意思を回復するためと言えます。


私たちの現実

 私たちが教会生活を送るときにも,多くの規則・習慣・伝統・神学がありますが、もし規則や習慣が人を苦しめて束縛しているだけなら,あるいはある人の権威付けのために用いられているに過ぎないなら,その規則は再考されなければならないでしょう。もちろん,現実の生活の中で各人が感じる束縛は違います。しかし,キリストに呼び出された者が互いに仕え合う,違う者を尊重し,互いの助け合いで生きていくことが神の意思であることは常に考えておくべきことです。その中で互いにレッテルを貼らずに,互いに人として話し合う必要があります。誤解があれば謝罪も必要であるし,それが出来るのは,自分の見栄や理屈よりも関係を作り直す自由がキリストによって与えられているからです。キリストが自由を与え,それ故に神と人とに責任を持つことの出来る生き方,自分自身が尊厳を持って生きていくことの出来る生き方をキリストは与えたのです。